岩切裕子

2020年3月にヒロ画廊で岩切さんの個展を初めて開催しました。それ以降、コロナ禍が本格化してしまいましたが、制作姿勢の変化もあったのではないでしょうか。

 この2年間、最大の変化は夫が在宅勤務になったことです。以前日中は自宅アトリエでひとり自由にやっていた生活のリズムが崩れ、緊急事態宣言で準備していた展覧会は中止になり、世界中が停止してしまったようで途方に暮れました。ですが、もっと厳しい状況に立たされている方々もおられるのですから、私だけ安穏と作品を作って発表するような贅沢はもう許されないかもしれないとも思いました。
 外出もままならず、美術館も休館が続く中、絵を見に行きたいという思いが日に日に募りました。いままで当たり前のように享受していたものが突然無くなってしまった分、NHKの日曜美術館の録画を何度も見ながら飢えた気持ちを鎮めたものでした。そしていち早く現代美術館が再開した初日には、文字通り飛んで行きました。マティスがカバーと内装を手がけた大型本「Verve」と「Jazz」には心身ともに癒されるような心持ちがしました。入館者も少なく、ほとんど会場を独り占め状態。自粛の鬱憤を晴らすように隅から隅まで舐めるように見て、自分だったらどういう風に作り、どう見せるだろうかなどと考えながら至福の時間を過ごしました。
 そしてあらためて気づいたのは、やはり自分はものを作ることが何よりも好きなのだということ、それを見せる場所がないのがこんなに虚しいものなのだということでした。自分が制作できるのも、その発表の場があるのも決して当たり前ではなく、それを見る人に届けることができるのはこれ以上ないほどの幸せなのだということでした。
 ウィーンフィルの指揮者リッカルド・ムーティが、2021年の無観客開催のニューイヤーコンサートを前に言っていました。音楽のない、芸術のない人生は味気ないものだと。芸術はあってもなくてもすぐには困らないものかもしれません。でもそれを失ったとき、どれほど空虚な思いを抱くものかということが身に沁みてわかりました。コロナ禍で多くの人が苦しみ、多くのものを失ったのは悲しい事実ですが、それであらためて気付かされたこともたしかにあったのです。

版画でも銅版画や石版画など種類があるなか、木版画を選ばれたきっかけというのは?

 私が学生だった80年代当時は、現代美術の全盛期といって良い時代だったと思います。絵が描きたくて美大の油画科に入ったものの、周りはコンセプチュアルアート一色、それはそれでリアルタイムに面白い経験もしましたが、私としてはやはり絵が描きたかった。どうやらそれができそうなのは版画だと思い、興味を持ちました。最初は銅版をやるつもりでしたが、金属の質感にどうしても抵抗があり、エッチングでは腐食の時間がさっぱりわからずにすぐさま断念しました。同様にリトは薬品がうまく使えず、描いたものがそのまま反転して出てくるのが物足りなくてやはり断念。消去法で残ったのが木版だったというのが本当のところです。木版だけはあり得ないと思っていましたが。
 なぜなら銅版もリトも線で描くことができますが、木版では仮に細い線を使いたくても、彫刻刀で彫るそれは柔らかさにはほど遠い稚拙なものにしかなりません。そこで描線という概念をいったん捨て、色面で考える必要がありました。

 小川洋子と堀江敏幸による架空の往復書簡で構成された「あとは切手を、一枚貼るだけ」 。友人からのエアメールをコラージュした外函に、14 通の書簡に合わせた版画14点を収めた作品。

時計回りに彫刻刀、バレン3種、モデリングペースト、筆、サンダー、マチエール版

 多摩美の木版はアカデミックなところがなく、よく言えば非常に自由、反面ほとんど野放し状態でしたので、自分で何とか創意工夫するほかありませんでした。私は油画科出身だったので(3年次から選択で版画)、油彩のように柔らかいタッチは出せないかと試行錯誤した結果、在学中に現在のようなマチエール版による技法にたどり着きました。私の作品は一見すると木版には見えないかもしれません。油彩のようなタッチが欲しければカンヴァスに描けば良いだろうと思われるかもしれません。ほとんどの版画家がそうだと思うのですが、油彩や水彩のような直接技法ではなく、七面倒くさい版を介した間接技法が性に合っているのです。たぶん作品に対するアプローチの仕方が違うのだと思います。照れ屋なのかもしれません。自分の高揚した感情を画面に直接ぶつけるのが苦手なのでしょう。下絵を描き、それをトレースして版を起こす手間と時間をかけるうちにだんだんと自分が冷静になり、ともすれば作品から遠ざかり、客観的になっていくように思えてきます。出来上がった作品は自分の感情からはずいぶん離れたところに存在しているような気がします。この感覚は、版画という間接技法ならではないかと思います。 また、木版の魅力のひとつは木目の美しさです。これだけは油彩でもほかの版種でも得られないものです。「版が仕事をしてくれる」とよくいいますが、狙い通りに木目を生かせたときには、自分の力の及ばないものが働いているような気さえします。

普段、制作で大切にしているアイテムはありますか?

 木版は凸版ともいわれます。凸面に載せられたインクを摺りとることが基本です。この凸面は彫刻刀で彫って作るだけではありません。異素材を貼り付けて版にすることをコラグラフといいますが、これはフランス語のcollage(貼り付けるの意)とgraphic(版画の意)を合わせた造語です。古くは月岡芳年も部分的に布地を板木に貼り付けて空摺り(エンボス)に用いていました。近年では木版画家の萩原英雄さんなども取り入れられるなど、現代版画では比較的ポピュラーな技法です。私の技法のベースはこのコラグラフです。これをマチエール(素材)版と呼んでいます。この版を作る際に、モデリングペースト(アクリル絵具用の溶剤)を筆などで載せていきます。そこに油性インクを載せて摺り、乾いたのちに水性版を重ねることで木版でありながら油彩画のような筆触、柔らかなタッチを得ることができます。この技法は言葉だけではなかなか伝えづらいのですが、これはほんの一例です。版画家は道具好きな人が多く、私もその例に漏れずさまざまなものを使用します。彫刻刀やバレンは言わずもがなですが、とくにどの道具が大切というよりも自分が表現したい手段として何が必要かが重要になります。画家が筆や絵具を選ぶのと同じです。
 制作の際によく手に取るのはやはり画集です。実際に訪れた展覧会の図録を含めると、画集は何冊あるのかわからないほどです。意外?にも現代版画はそれほど多くなく、普段開くこともあまりありません。タブローが多くを占めていますが、浮世絵や琳派、仏像仏画、陶芸やガラスなども時折眺めています。
 よく手にするのはクリムトの風景画だけを集めた画集です。これは現在神奈川県立近代美術館の館長をしておられる水沢勉さんが翻訳・監修に当たられたもので、私が(空想上の)風景画を制作するきっかけとなったものです。主にオーストリア南西部の湖周辺を描いたタブロー(全て正方形)で、絢爛豪華なクリムトのイメージとはかけ離れた、とても穏やかで幸せな風景画です。画集なので愛読書という言い方が適切かどうかわかりませんが、あえて言うならこれがいちばん大切なアイテムかもしれません。

クリムト画集 Die Landschaften Johannes Dubai 著 水沢勉訳 リブロポート発行

 画集など視覚的なものだけではなく、本を読むこともとても重要です。本を読まないと作品が作れないと言っても過言ではありません。本をテーマにした作品も作っています。読むのは小説が多いですが、詩集やノンフィクションなども。言葉を追いながら新しいイメー ジが広がっていくのを待つのです。いろいろな言葉のかけらから目の前に広がる風景を想像し、構築していきます。
 作業そのものには直接関係ありませんが、音楽のCDもなくてはならないものです。アトリエでは必ず何かをかけています。主に弦楽やピアノ曲が多く、とくに好きなのはバッハとブラームスで、グレン・グールドのバッハは飽きるほど聴いています。グールドは来日したことはないはずですが、日本贔屓?だったようで、漱石の草枕が愛読書だったそうです。グールドの住まいがあったトロント郊外の湖の風景を、いつか作品にしてみたいと思っています。

今、訪れたい場所や会いたい人を教えてください。

 小学校からの同級生が小さい頃からヴァイオリンをやっていて、高校卒業後ウィーンに渡りました。当時はメールどころか電話もおいそれとはかけられず、手紙だけが唯一の通信手段でした。まだ見ぬ異国からのエアメールを心待ちにしたものです。大学生になってから何度か彼女のところを訪れています。ウィーンは何といっても音楽の街です。オーケストラに所属した彼女にくっついて、コンサートやオペラに連れて行ってもらいました。モーツァルトの「魔笛」や「レクイエム」など、何もかもに魅了され、圧倒されました。  音楽のみならず、ウィーンは美術館も充実しています。ハプスブルク家が誇る圧倒的なコレクションの数々を見ることができます。クリムトの風景画と最初に出会ったのも、夏の離宮であったベルヴェデーレ美術館でした。そして分離派美術館、圧巻のベートーヴェン・フリースに出会えます。前回ウィーンに行ったのは3年前。いまでは電話も気軽にかけられるし、顔を見ながら話すこともできますが、やはり彼女や彼女の家族にまた会いたい。そして音楽や美術にどっぷり浸かりたいと願っています。

ウィーン分離派美術館 (Secession) クリムト生誕150年記念で特別に足場が組まれ、ベートーヴェンフリースを目の高さで見ることができました(2012年)。

作風から北欧のイメージが湧いてきますが、影響を受けられた作家というのは?

 前述しましたが、ウィーンではクリムトやシーレ、フンデルトヴァッサーの作品に触れる機会が多く、またブリューゲルやボスなどフランドル派の作品も充実しています。それらには少なからず影響を受けていると思います。北欧には行ったことがありませんが、最近ハマスホイなどデンマークの画家も好きです。2年前、コロナで展覧会が中止になって本当にがっかりしたものです。日本の作家では有元利夫さん、画面からチェンバロやリュートの音が聴こえてきそうで、絵から音楽を喚起させるということにはいまだに憧れを持っています。
 これらの作家とは時代も作風も異なりますが、マーク・ロスコも好きな作家です。いつまで見ていても飽きることのない静かな佇まい、絵の前から離れ難くなるような強烈な存在感、それでいて何かを思い起こさせる既視感、その先に何があるのだろうといつも考えさせられます。  たとえば画廊や美術館で一度通り過ぎたあとに何か気になって、もう一度戻って同じ作品の前に立つことがあります。そんな風に強烈ではないけれど何となく頭の片隅に残る、もう一度見たい、あるいはずっと見ていたいと思ってもらえる、作家としてはこんなに幸せなことはありません。

ウィーン美術史博物館での特別展示 マーク・ロスコ展 (2019年) たまたま開催されていて大喜びしました。

「elm tree house Ⅰ」 2022年 木版画 画寸 17.0 x 16.0cm

「auf den Balkon」 2011年 木版画 画寸 52.0 x 19.0cm

岩切 裕子 Yuko IWAKIRI
1961 東京都渋谷区生まれ
1988 多摩美術大学大学院美術研究科修了(木版画専攻)
1989 平成元年度文化庁芸術家国内研修員
現在 日本版画協会理事、日本美術家連盟会員
作品収蔵:文化庁、町田市立国際版画美術館、練馬区立美術館、宮崎県立美術館、
相生森林美術館(徳島県)、黒部市美術館(富山県)、須坂版画美術館(長野県)、
HOKUBU絵画記念館(札幌市)、国立浙江省美術館(中国)

武田史子

版画の中でも木版画や石版画でなく、銅版画を選ばれたきっかけを教えてください。
 銅版画を選んだというのは偶然というか仕方なく……から始まりました。藝大の前に多摩美術大学のグラフィックに行っていましたがそこで版画の選択授業があり、その当時アンディ・ウォーホールを知りシルクをやりたかったのですが、教室は溢れんばかりの人で入れず次にリトグラフ教室を見てもかなりの人でダメで、最後に仕方なく入った部屋が銅版画で数人の学生でした。
 その当時、きっと有名な先生もいらしたかと思いますが、全然覚えてなく最後の講評会で少し褒められたのが嬉しかったことだけを覚えています。
 その後、藝大デザインに入り直し、2年次に版画の選択授業があり一度経験があるなら続けてみればと言われ、当時地下にあったデザイン科の版画工房が居心地よく担当教授も洋画を描かれていたので、そのまま卒業制作も修了制作も銅版画を制作し、有難いことに修了制作が買い上げになりました。ただ、大変だったのが、基本形は教わりましたがほとんど独学で、今も絵画科(油画)の版画専攻に方々にはコンプレックスだらけです。

影響を受けた作家を教えてください。
 版画では、駒井哲郎、長谷川潔、浜口陽三、清宮質文、深澤幸雄氏の本でかなり勉強しました。あとは大御所の作家(欧州、日本)の作品をよく観ます。誰とは多すぎて……です。好きだなと思えばどんな作品(絵画も彫刻等々)も観ます。

普段、制作で大切にしている道具は何でしょうか?
 一番大切にしているのは、職人さんに作って頂いたバニッシャー2本です。既製品のバニッシャーも使用しますが、太さ、カーブの具合が絶妙でとても使いやすい品です。

コロナ禍がなかなか落ち着かない状況が続いています。訪れたい場所や会いたい人を教えてください。
 今、訪れたい場所は、欧州。両親と一緒によくイタリア、フランスの田舎に旅行していました。欧州は美術館を含めてどこに行っても見るべき場所や出会う風景等があり、刺激になります。それと友人の居るオランダとベルギー。レンブランドハウス、ベルギー/ヘントの祭壇画は、実際に行ってみたいところです。

武田 史子(たけだ・ふみこ)
1963 東京都生まれ
1989 日本具象版画展 優秀賞
1991 東京芸術大学大学院美術研究科 修了(修了制作買上賞)
2016 アワガミ国際ミニプリント展(賞候補)
2017 高知国際版画トリエンナーレ展(佳作賞)
2017 アワガミ国際ミニプリント展(優秀賞) パブリック・コレクション 東京芸術大学 本間美術館 文化庁

杉田修一

杉田 クラフト作家の小黒三郎さん(登り人形を広めた作家)がご近所にいるんだけど、昨年初めて面と向かって話す機会があって「世界中でいろんな木工の作品を見てきたけど、杉田さんのピボットのようなスタイルは、どこを探してもない」と言ってくれて本当にうれしかったのを覚えています。

—生き物たちを唐木で表現するピボット作品とは別に、倉敷の街並みを透明水彩で描かれる一方、イコン画・テンペラ画も手がけられて、作風や扱われる素材が多岐に渡りますよね。ご自身のなかで、メインの技法はありますか。

杉田 本来は作家として東京に居て自分の世界を淡々とこなしていたら、イコン作家として認めてもらう自信もあったけどそういう自分をあきらめたからね。倉敷に戻って、地方作家として是が非でも生き延びようとしてね。自分の手で、自分の世界のモノを作って、買ってもらって生きていくと腹を決めたから。でも、あきらめた世界もあるけど、割いている時間を別にしたら、少し遠ざかっているテンペラ画ももっと描かないとなっていう思いもあるよ。

—あきらめたり、受容することとが、ちょっとずつ大人になっていくことかなと個人的には思いますが。

杉田 60歳になったときに、リタイアした知人の何気なく 言ったことで、やり取りがあってね。「杉田は良いよな。作品や名前が残るでしょ。俺らは何も残んないよ。書類を確認して、はんこ押して、ちょこっと書いて……云々。それが宝物になるか。何も残らないでしょ」って言うものだから「ダビンチにミケランジェロ、名を残した作家もいれば、当時のフィレンツェの街に、ルネサンスの時代にどれだけの作家がいたことか。ほとんど残れずなわけで、俺とお前の立場は変わらないよ」と。そこからは、残る云々より、自分がどれだけやりきったかという幸福論に行き着くよね。 幸い自分は高校のときに好きな道に出会って、それに向かってやることをやってきたっていう自負はある。好きな分野で自分が目標を決めてどれだけ達成できるか、人からの評価を気にしすぎず、悔しい思いをしながらも、自分がどう納得出来るか。どうせする苦労なら、自分の好きな世界でやったほうが頑張れるよね。他人に決められて人に疲れてで生きるなんて僕にはムリ。第一、体に悪いよね。僕は、生涯現役で楽しんでいきます。(岡山県倉敷市にある杉田修一のアトリエにて)

ムツゴロウ(唐木)

[略歴]
杉田修一(すぎた しゅういち)
1953 倉敷にて生まれる
1975 武蔵野美術大学造形学部油絵学科卒業
1987 倉敷に帰郷 自宅にて絵画教室を開設
1994 第11回ハンズ大賞入選
1997 年賀状、岡山県内版に水彩画「岡山城」が採用される
1999 ふるさと切手の原画に採用される

小山亨


ラ・フォレスタ スタッフ 中村 振り返ってみると、直感的で私心のない方でした。作られる作品にも迷いがなくて。対人関係でも、初対面でもスッと受け容れられる方には、ガード無く接していた方でした。私がこのラ・フォレスタに勤め出したのは4年前からですので、お付き合い出来たのもそれ以降なのですが、小山さんはもっと前からこちらの工房にいらっしゃいました。短い期間のお付き合いでしたが、うまくはいえないのですが、自分の気持ちを大事にされていた方、という印象です。

ーモチベーションを整えて、仕事をされていたということでしょうか。

中村 そうだと思います。ご自宅は河内長野市なのですが、ここまで車で来られる通勤ルートが山に分け入っていくような感じなんです。国道から逸れて、緑の木のトンネルを抜けて工房に着いて。晩年で印象に残っているのが「以前は頭の中から離れない心配ごともあったりしたけど、ここに来て朝の空を眺めて、今日もここで仕事ができるんやと、そう思うだけでうれしい」と仰っていました。晩年はそんな気持ちで工房におられたようです。

ー小山さんは、渡米して木工家・ジェームズ・クレノフに師事されたとうかがいました。

中村 小山さんとクレノフとの関係ですが、クレノフが著した『木の家具ー制作おぼえがき』(中井書店・2008)を翻訳した三ツ橋修平さん(クレノフの学校で小山さんと一緒に学んだ)のお手紙にこうありました。「小山さんは、事情があったためクレノフの学校に彼の本を読まずに入学した唯一の教え子であったのに、他の生徒には気難しいクレノフが彼とは心をゆるした付き合いをしておられました。クレノフとは予備知識をもたずともわかりあえていたようです」と。私見と想像ですが、小山先生は技術的なもの以上に「木目の美しさの生かし方」の感覚をクレノフと共有することによって学ばれたのではないでしょうか。作品を見ているとそう思います。カリフォルニアでのクレノフとの幸せな時間と体験が核としてあったので、フォレスタの木工教室でも、その感覚を醸し出されていたようです。教室の生徒さんの話ですが、厳しいところもあったけど、単に指導を鵜呑みにするのではなくて、自分の頭で考えてデザインすることをいつも促されていたようです。裏表のない方でした。自分の作品については饒舌に説明されることもなく、売り込むことも苦手だったと思います。ただ、生き方は曲げられずに清々しく全うされたのではないかと、私は思います。  

ラ・フォレスタ工房作家 小山亨さんは2018年3月24日に逝去されました。 ご冥福をお祈り申し上げます。  

(売約済)キャビネット(ブビンガ・ウォルナット)

[略歴]
小山亨
1986 長野県にて木工の基礎を学ぶ
1989 California College of the Redwood ジェームズ・クレノフ の元で学ぶ
1991 大阪インテリア 末包茂樹一級建築士事務所にて活動
1996 河内長野市にて木工房K Factory開設
1999 千早赤阪村に工房を移転

ラ・フォレスタ(南河内林業総合センター)  〒585-0055 大阪府南河内郡千早赤阪村東阪1238-5 電話番号:0721-72-0090 営業時間:11:00~17:00 定休日 :月曜~木曜 駐車場 :あり http://www.sinrin.org/foresta/