宮嶋結香

—今回は、宮嶋さんの個展を開催されている東京・銀座にあるギャルリーヴィヴァンさんにお邪魔しました。こちらのギャラリーは通りすがりに来場される方も多そうです。

宮嶋 ふらっと入って下さる方は多いです。今回は、このギャラリーでずっとアルバイトをしていたご縁で開催しています。ギャラリーの方とも顔なじみですので、展示会としてはやりやすいです。今年の個展ですと、和歌山での個展後は、9月に埼玉、12月には日本橋(東京)の画廊でそれぞれ展示があります。近場で行う個展では必ず在廊するようにしています。和歌山にはまだ行ったことがなくて、世界遺産の高野山があるイメージが強いです。関西での展示の経験はあまりないので、今回和歌山に行った際は大阪や京都へ行ってみたいですね。

—作品を描かれている素材ですが、このシワの入った厚紙は画用紙ですか。

宮嶋 厚紙は米袋です。いただいたり、自分で集めています。最初はポスターの裏に描く所から始まりましたが、手触りの感じが次第に気に入ってクラフト系の紙袋に描くようになりました。最終的には、米袋の大きさやほどよく丈夫なところ、特にシワ具合が自分には合っているのでよく使うようになりました。気負わずに描けるので、紙にも自然体で向き合えています。

—出身の福島県から東京に移られて、どれぐらい経ちますか。

宮嶋 10年以上経ちました。大学入学以降からです。私は自分から積極的に動いていきたいタイプなので、今は東京を拠点として活動し、ギャラリーの人やお客さんと知り合いになっていきたいです。ただ、制作はどこでも出来ますし、最終的にはどこでも活動できると思っています。

—作風ですと、2頭セットで溶け合うようなリラックスした動物たちが多いです。

宮嶋 最初から動物を描いていたわけではないです。大学の頃は埴輪(はにわ)のような、植物・動物・人間が一緒くたになった謎の生き物を描いていました。それからは、その原始的な雰囲気から、アフリカの仮面のようなプリミティブなイメージにも行き着きました。ただ、原始的な表現はとても奥深く、自分の中では到底消化仕切れずに、キャラクターのような動物人間を描くようになり、最終的にその人間の部分が抜けて、今の動物のモチーフだけが残ったという感じです。表現したいものは同じですが、作風は変遷しやすいタイプだと思います。今は動物を描いているのだけれど、動物そのものを描いているわけではなく、そこから伝わる感情を大切に描ています。鳥も好きで、元々は1頭で描いていましたが、最近は番い(つがい)の鳥たちが多いです。

—最後に、個展で見てもらいたいポイントなどはありますか。

宮嶋 自分の中で「こう見て欲しい」というのは特にないです。あるとすれば、たとえば番いの作品ですと、溶け合う関係性でしょうか。ペアなんですけど、親子かもしれないし、兄弟かもしれないし、もしかしたら恋人かもしれない……観る人に委ねて自由に見てもらいたいです。

(売約済)Owls hooting at night forest 420x530mm アクリル・鉛筆・色鉛筆・クレヨン 2018年

[略歴]
2009 女子美術大学芸術学部美術学科洋画専攻版画コース卒業
2011 Tokyo Wonder Wall 東京都現代美術館(東京)
2015 HB Gallery FILE Competition Vol.26 藤枝リュウジ特別賞受賞
2016 HB Gallery FILE Competition Vol.27 永井裕明大賞受賞
2017 利根山光人記念大賞展 準大賞受賞
Little Christmas -小さな版画展-(全国巡回)

安芸真奈

安芸さんは地元の高知大学を卒業後、東京で作家活動をされつつ、10年前に帰郷されたと聞いています。

安芸 大学は教育学部で、専攻はグラフィックでした。卒業後は地元で3年間の時間講師をしてから東京に行きました。東京では、NHKカルチャー教室で磯見輝夫先生(いそみ てるお,1941-,東京芸術大学油画科卒,日本版画協会理事長などを歴任)に出会う機会があって、次第に作品を見てもらうようにもなりました。先生が版画協会に出品されているので、年に1度の目標として自分も出品しているうちに、銀座の養清堂画廊から個展のお話を頂き、協会の準会員になったら作家の知り合いも出来てグループ展に参加したりしながら細々と続けて来ることができました。東京に出た頃は、湯島の骨董屋や古本屋でもアルバイトをしていましたね。

イントネーションが少し関西弁みたいですね。

安芸 東京に20年間いたので、仕事や展示会のときは標準語で話しますが……関西の人と会うとイントネーションが引っ張られて、どんどん訛っていきますね(笑)。

高知県人の印象ですが、『毎日かあさん』などで有名な漫画家の西原理恵子さんのイメージが強いです。あと、頑固者を指す高知の方言が確かありましたよね。

安芸 西原さんとは世代は同じですが、タフで気前が良いのはいかにも高知っぽいですね。頑固者は「いごっそう」ね。高知の人たちって、江戸っ子に少し似てますね、ちょっぴりお馬鹿で宵越しの金は持たないというのかな、陽気なところは特にね。

作家活動とは別に、和紙原料の作業を勉強されるなど、制作とは別のライフワークも持たれています。

安芸 和紙がとても好きで、広げた瞬間も好きですし、和紙を触りながら制作することが喜びですね。子どもの頃から和紙への関心が根っこにあって。というのも、16世紀末に私の先祖が紙漉きをしていました。当時の土佐のお殿様だった長宗我部元親に、先祖のお父さんが滅ぼされて。先祖は当時まだ小さかったので、阿波へ逃げて最後は伊野(現 高知県吾川郡いの町)の山に逃げました。その山奥に長宗我部元親の妹が住んでいて。妹さんは元親の家来でもある旦那さんと伊野の町中に住んでいたのですが、その旦那さんがあまりにも有能過ぎたので、元親は妹婿ながら討ち滅ぼしてしまったんですね。旦那を亡くした妹は尼さんになって、伊野の山に住んで養甫尼(ようほに)と呼ばれていました。どういう縁かは不明ですが、先祖はその養甫尼と二人で暮らし始めました。ここからは民話になっているのですが……そこに愛媛から旅人がやって来て、おそらくお遍路さんだと思うのですが、行き倒れていたようです。その旅人を彼女と先祖が助けたところ、恩返しに紙漉きを伝授してくれました。養甫尼は武家の娘だったので、草木染めなどの染色に明るいこともあって、彼女が七色に染め分けた色のついた和紙を作ろうと三人で色付き和紙を作りました。旅人は恩返しも出来たので、帰路につきました。そして、あくまで民話ですが、技術の流出を恐れた私の先祖が仏ヶ峠に通りかかった旅人を斬り殺してしまいました……が、実は殺してないという説もあって、民俗学的に日本にはこのような話しが多いようです。その七色和紙は、山内一豊が高知城主になると、献上品である御用和紙になって段々と大事にされていきました。養甫尼は七色和紙が完成したら技術書を先祖に譲ってくれて、最後の時間を過ごすために高野山へ向かいました。養甫尼のそれ以後の消息はわかっていません。七色和紙が御用和紙になったことで、先祖は代官を務めるなど少し出世したようです。この民話を小学校5年生のとき、社会の授業で習って家に帰って「同じ苗字でひどい人がおった」と母に話すと「それはうちの先祖よね」と言われて当時はすごくショックでしたね。悪者みたいに伝わっていたので。でも、こういう古い話のある家ですと、郷土史家さんが時々訪ねて来ていたのですが、「いやいや、やってないよ」と反論してくれたりして……。

土佐和紙の前進に安芸さんのご先祖がかかわられていた、と。

安芸 そんないきさつもあって、小さい頃から先祖は紙漉きにかかわっていたんだと、インプットされていました。実際の和紙作りですが、今私は脚の調子が良くないので、「へぐり」(和紙の原料となる楮の樹木から樹皮をはがす作業のこと)ぐらいしか出来ないのですが、お付き合いのある高知市の画廊「星ヶ岡アートヴィレッヂ」さんも和紙や原料作りなどに関わってくれるようになったり、地元の紙漉き職人さんとのお付き合いも徐々にですが増えてきました。画廊の武田さんは「出来ることを、出来るときにしたらいいよ。それでみんなが少しずつ関わってくれたらいいじゃない」と言ってくれて。昨年の4月に亡くなられてしまったのですが、画廊を創業したオーナーも作品を単に売るというよりは、作家や地元の人たち、色んな人たちがつながり合う場所を作りたかったんだろうなぁ、と思っています。東京にいた頃は、ひとりで全部頑張らなくちゃと意気込んでいましたし、「和紙がなくなる」「原料がなくなる」と少しひとりよがりに騒いでいました。けど高知に帰ってきて、画廊には人の輪があることに気づかされました。特に私はつながりを作ったり維持することは苦手なので……。今は、地域の人に和紙への関心や問題意識が少しずつ生まれたらいいな、という段階です。制作は、企画をしてくださる画廊さんや作家さん、日本版画協会があって続けることが出来ました。なので、個展は仕事でもあるし、夢と希望でもあるんですよね。個展が出来るって、すごい嬉しいことなんですよ。

夢と希望……日常生活ではなかなか言葉にしないですよね。でも作家さんや、作品を手に入れられる方々には特別な1回には違いないですからね。夢と希望……。

安芸 つい言ってしもうたけど(笑)。でもアルバイトをしていた骨董屋で仲良しやった子は「俺ら、夢売る商売だから」ってよく言ってたなぁ。私は個展を頻繁にしているわけではなくて長年なんとか活動してきて、この年になってやっと「こんな所からお話しが」ということが増えてきました。

(桂浜の荒磯を目の前にして)今、東映映画のオープニングみたいな波しぶきでしたよ……!

安芸 でも今日はまだ荒くない方ですよ。桂浜の海って、海底で渦が巻いていて小さな波でもキュッと引っ張られてしまうんですよ。高知の人はよくわかっているんですけどね。でも県外から観光で来た人だと、小さい子どもを遊ばせていて、後ろを向いてパッと振り返ったらもう子どもがいないってことはよくあって……。去年も立て続けに事故があって事故防止の看板が増えていますね。

天気は良くて、本当に気持ちいいんですけどね。

安芸 自然相手の出会いが多い土地なので、誰かを案内していても今まで見たことないような素敵な景色に出会うことがあります。今日はきっと土地が歓迎したんだと思いますよ。桂浜はお月見の名所でもあるんで、昔は高知のお殿様たちもここでお月見をしていたようです。

これだけの自然が目の前にあると、制作のモチーフにも事欠かないのでは?

安芸 モチーフ……小笠原諸島に行ったときもドルフィンスイムをしましたが、あまりにきれいで幸せすぎて絵は描けなかったですね。私は抽象画ですからね、自分の中で一旦昇華しないと。すぐに絵に出来ると思ったら大間違い、と小笠原では思いました。

今回初めて高知に来ましたが、坂本龍馬が桂浜を愛したというのは少しだけわかったような気がします。安芸さんも龍馬はお好きですか。

安芸 高知の人は、みんな好きですよ。大事にしていますよね、龍馬を。桂浜はお天気によって海の色が全然違うんですよ、今日よりもっときれいで透明な日もありますね。もう少し澄んでいたらスズキとかキスとか、波の間をちゃちゃっと泳いでいくのが見えるんですよ。目の前には海が広がるし、後ろは山ばっかりで、龍馬も外国へ行きたかったやろうね。


Sing – 1806 91.5×47.5cm 木版画 2018年

[略歴]
安芸 真奈(あき まな)
高知県生まれ 高知大学卒業
1997 第1回多摩国際版画交流展 / ポーランド・日本(パルテノン多摩、東京)
1998 “Space”現代日本版画展(ティコティン美術館、イスラエル)
1999 ぶどうの国の国際版画ビエンナーレ [招待出品](山梨県立美術館)
2001 あおもり版画トリエンナーレ(青森)
2002 50周年記念 現代日本版画展 (ティコティン美術館、イスラエル)
2002 日本の木版画(ULSTER大学、他、イギリス)
2003 “紙と版画”日本・オランダ版画展 (Zaans Museum、オランダ)
2003 インターコネックション-ミニ・プリント展(カナダ)
    ポーランド・日本 クラコウ国際版画トリエンナーレ特別展(ポーランド)
2004 ラテンアメリカ版画ビエンナーレ日本展(アルゼンチン)
2006 Grafiek manifestatie 版画宣言(オランダ)
2010 HOT PLATE – ブライトン国際版画展 (イギリス)
2011 日本・ベルギー版画国際交流展 (ギャラリー@KCUA、京都)
2012 イメージの叫び パワー・オブ・創作木版画(府中市美術館)
    第1回ノヴォシビルスク国際版画トリエンナーレ展 (ノヴォシビルスク、ソ連)
2013 Sint-Niklaas 2013 bookplate and small printmaking competition(ベルギー)
2014 第9回高知国際版画トリエンナーレ展(第5,6,7,8回、いの町紙の博物館 高知)
   「対峙する刻・風」イタリア・日本版画展 (ヴィツェンツァ、イタリア)
   「HANGA / 日本とベルギー 版画の今日」(セントニクラス市立美術館、ベルギー)
2015 日本ベルギー版画国際交流展 (U-FORUM MUSEUM, 東京)
    Pray for Peace 平和への祈り−ポルトガル・日本現代美術展(長崎、ポルトガル)
2016 「紙上創作」台日韓美術交流展(台南市立新営文化中心、台湾)(巡回展—桃園)
日本版画協会展 [1989年より毎年出品](東京)
2017  第61回CWAJ現代版画展併設展 刀で描くー無限に広がる木版画(フレデリックハリスギャラリー、東京)
他、グループ展多数

日本版画協会会員、プリントザウルス国際版画交流協会会員、日本美術家連盟会員

森永豊 吹きガラス展

2018年5月3日[水・祝]— 5月13日[日]
11:00am -6:00pm

[略歴]
森永 豊 Yutaka MORINAGA
1961 鹿児島県川内市(現薩摩川内市)生まれ
1994 東京ガラス工芸研究所パートドヴェール科を卒業
1994 北海道立工業試験場野幌分場に於いて研修
1995 広島県福山市「グラスヒュッテ」に於いて舩木倭帆氏に師事
2000 薩摩川内市に築炉

今村由男

長野県飯田市にお住まいの作家・今村由男さんのヒロ画廊での初個展に際し、同県下伊那郡高森町にあるアトリエを訪れました。

―今村さんは、国内での展示活動と並行して、海外でも精力的な作家活動を展開されています。

今村 最近では、アーティスト・イン・レジデンス(※)の仕事で海外には行くことが多いですね。どの国でも滞在期間は大体1ヶ月です。近年ですと、モロッコ、韓国、スペイン、今年は中国。給料などは出ませんが、旅費や宿泊費は出してもらいます。そのほかには、ヨーロッパを中心に国際展に応募するのですが、受賞すると招待を受けたり、個展をしていただくことも多いです。
※招聘された芸術家が、ある土地に滞在し、作品の制作やリサーチ活動を行なうこと。またそれらの活動を支援する制度。

―海外での活動や、3月には展示前にヒロ画廊にお越し下さったり、フットワークの軽い方という印象を持っています。

今村 69歳ですので年齢なりの不安はありますけどね。海外での仕事は一人で行動する場合が多いので、「ここで倒れたらどうしよう……」なんて思いますが(笑)。あとは、お付き合いのあるアメリカ人の画商さんが熱心に海外に連れて行ってくれますね。エジプト、フィンランド、ベルギー、オランダ……。国内ですと、西日本や関西での個展は少ないですが、ヒロ画廊で終わったら、来年は京都で個展があります。あと、電車での移動は好きですので、地方の仕事だと(移動の車内で)お弁当を食べながらビールを飲んでね。ちょっとした幸せな時間ですよ。

―お若い頃から拠点は長野?

今村 20代前半は東京にいました。実は私、美術大学も出ていないくて絵画の技法に関してはほとんど独学なんです。20代の当時は、フランク・ステラ(1936年 – )、ロバート・ライマン(1930- )、ジャクソン・ポロック(1912 – 1956)……アメリカ現代美術の追っかけでしたね。日本の美術界自体がアメリカの傾向に寄る風潮がありますが、自分なりの現代美術を追究して毎日現代美術展や前衛派の国際展に出品していました。でも実際は、若い頃の考えに軸がない状態ですと美術雑誌に載っている情報や作家が「正しい」と信じてしまうじゃないですか。

―雑誌や本、このインタビュー記事もそうですが、出版業や編集のフィルターを通して一見整えられた「情報」には「載っているから『正しい』のでは」という正当性は醸し出されますね。

今村 そういった「情報」に感化されすぎると「これが現代美術なんだ」と錯覚して、自分が追究したい美術なんだと「幻想」を抱いてしまうんですよね。当時は、キャンバスに大きい号の作品ばかり描いては国内外の公募展に出品して、入選と落選を繰り返していました。「これは駄目だ」となって、長野に帰ってきました。絵がなかなか描けない時期もあって……20代は挫折感が強かったですね。その頃に、「美術手帖」という雑誌の版画特集で、のちに師事することになる中林忠良先生(なかばやし・ただよし, 1937 – , 版画家・東京芸術大学名誉教授)の作品に出会いました。

―長野に帰郷されてからの生活というのは?

今村 帰郷してから30代半ばの本格的な作家活動に入るまでは、それだけでは当然生計を立てられませんでしたので、今村由男デザイン室というデザインスタジオの運営がメインの仕事でした。帰郷してアトリエも構えて、スタッフも数人雇ってデザインの仕事をしつつ、作品作りをしては東京の中林先生の研究室に通って指導を受けて、デザイン業と作家活動と二足のわらじの期間が4、5年位続きました。そうこうしていると、東京都港区芝大門にあるトールマンコレクションという日本の現代版画専門のギャラリーから「扱いたい」と電話をいただきました。ただ、「扱いたい」と言ってもらっても、それまでに売った経験がないので自分自身の作品に値段も何もつけてないわけですよ。けれども、トールマンの方々がアトリエに来られて、作品を一通り見て「この作品は、この価格で」と小切手を出しては値段をパパッと書いて渡されて、話しはとんとんと進んで。自分としては「ワォ!」となりましたね(笑)。あれは、今思い出してもかっこよかったですね。

―今村さんに声が掛かったポイントというのは?

今村 未だによくわからないですね。取り扱いのメイン作家が篠田桃紅さんで、トールマンコレクションには海外のお客様が多いので「日本風」な古典的な作品を求められている作家もなかにはいますね。自分としては、30年以上のお付き合いで、作家としてのチャンスを最初に与えてくれたのもトールマンですし、アメリカ中心にアジアやヨーロッパでも売ってもらって、本当にありがたい存在です。

―作風やご自身の語り口など、とてもお若い印象を受けています。

今村 一種の緊張感から来てるのでしょうね。我々作家は、(仕事や生活について)何の保証もないので「明日はどう生きよう」という不安が常にありますから。ただ、一線で仕事をし続けるというのは、緊張感を要求されることですし、それを保ち続けることだと思いますよ。そうでないと、勝ち残っていけないですから。お付き合いのあるトールマンコレクションも「芸術家であるなら、この道だけでやってくれ」と発破をかけるタイプの画商ですね。過酷な世界ですので……若く見られるというのは、何か差し迫ったイメージがあるのでしょうね。

―その緊張感から、変わっていかないといけないという意識が生まれるのでしょうか。

今村 そういった意識自体はないですが、作風自体はよく変わっていますね。さきほどの篠田桃紅さんのように、ひとつのスタイルで続けられるのは幸せなことだと思います。自分のやりたいことと、世間の評価と需要が一致するわけですから。同じことをずっと続けることも素晴らしいですが……ただ、私の場合は自己模倣みたいになって飽きてしまうので、作風は変わりやすいタイプですね。一方で、観る方にとってのニーズについては常に考えています。例えば、ヨーロッパの方にヨーロッパの古城を描いても親しみはあっても新鮮さは薄いわけです。

―確かに、日本人の私たちが国内のお城や古刹の絵を見て、伝統性はあっても真新しさを感じるか、となれば疑問符が付きます。

今村 日本だと、個展で表現したい世界観、リトルクリスマス展で反応のある作風、海外だと、ヨーロッパ、アジア、アメリカ、各国で異なる反応など、それぞれを棲み分ける努力はしています。というのも、自分が純粋に本当にやりたいことが、形となってずっと売れ続けていくことが一番幸せなんでしょうが……現実ではそうならないですからね。私としては作風や表現スタイルはニーズに合わせて変化はしても、基本的な部分は変わらないですね。

―作風の基本的な部分についてですが、フレスコ画や幾何学模様は、海外の現地で得たイメージが強いのでしょうか。

今村 そうですね。一昨年ですと、クロアチアでの受賞式を兼ねて取材旅行にも行って現地のイメージを捉えてはいますね。国際展に出品していると感じますが、私の作品はまだまだ「日本風」ですね。決して意識しているわけではないですが。トールマンが声を掛けたポイントは、もしかしたら私の中に「日本風」があったからかもしれないですね。

―ご自身のなかでの日本風の原点は?

今村 原点は琳派ですね。金箔使いに、日本の伝統美、空間感覚……今やっていることはまるっきり琳派でしょうね。おそらく、20代のときに追究したアメリカ現代美術の裏返しでしょうね、極端な言い方ですが(笑)。現代美術ですと、伝統的な技法や感覚を排除して、頭の中で構築して、言葉にして、視覚芸術からは離れますからね。当時ですと、デュシャンも出てきたりして……その辺りへの反発が私の中であったのだと思います。

―反発の原動力となる、お若い頃の不本意な「タメ」があって、現在の今村さんがある。

今村 当時は無理をしていましたね。「はやり」とされる現代美術に身を置いているものの、いくらやってもラチが明かない。一方で、自分に嘘をついている感覚だけは大きくなっていったわけです。海外や外に出向く反面、じっくりと版に向き合う今のスタイルは若い頃の反動でしょうね。20代は悩みに悩んでいましたが、そういう不本意な時期に中林先生の版画を見てからでしょうか、自分にとっての転機は。「こういう(版画の)世界だったら、自分に嘘を言わなくて作品作りが出来るかな」と思えて。それからですよね、作家としてのスタートは。


The Moon(2019年エッチング/メゾチント/箔/木版 62㎝×94㎝ ed20 2019年中国Guanran国際版画ビエンナーレ 最高栄誉賞受賞作品)

[略歴]
今村 由男(いまむら よしお)
1948 長野県に生まれる。 独学で版画を始め、銅版画家・中林忠良氏に私淑する。
1989 日本版画協会展・準会員賞、ニューヨーク国際ミニアチュールプリントビエンナーレ受賞、
バラトヴァバン国際版画ビエンナーレ・特別賞、日仏現代美術展・佳作賞(90年フランスソワール賞2席、フィガロ賞3席)
1991 アトリエコントルポワン(パリ)に留学し、1版多色刷り銅版画を学ぶ
1995 パシフィックリム国際版画展・ハワイ州教育・芸術財団買上賞(1997、2000年)
1997 文化庁特別派遣在外研修員としてパリ、アトリエコントルポワンに留学
1998 フィンランド国際ミニプリント展・特別賞
2000 カダケスミニプリント展・受賞。翌年審査員を務める。
2008 ニュージーランドパシフィックリム国際版画展・審査員特別賞
2009 ソウル空間国際版画ビエンナーレ・買上賞、スプリット国際グラフィックアートビエンナーレ・特別賞(クロアチア)
2011 CWAJ現代日本版画展・第1回運営委員会賞、モロッコのアートフェスティバルに招聘され滞在制作を行う。
2017 スプリット国際グラフィックアートビエンナーレ・グランプリ(クロアチア)