林孝彦

—林孝彦さんのアトリエがある埼玉県日高市に来ました。アトリエ最寄りの駅名ですが、高麗と書いて「こま」と読むのですね。

林 奈良時代に大和朝廷が朝鮮半島の高句麗から日本に逃げてきた王族たちのために高麗郡をここに作ったようです。数年前には、建郡1300年記念の事業もありました。私は今の場所に住んで18年、それまでは同じ市内の別の場所に10年住んでいました。

—今回は、個展タイトルに「the sound of lines(ザ・サウンド・オブ・ラインズ)」と名付けられています。

林 以前は「風」をテーマにしたタイトルを付けていました。今読んでいる本の影響もあって、少し哲学的な話題になりますが……今の時代ですと「ライン」という言葉は、スマートフォンのアプリケーション名にもなって隆盛していますが、「つながり」という意味合いが強いです。ものにオリジナリティがあるということでよりも、つながりがあることによって生命が吹き込まれる、そういう時代にあるので「風」という言葉で作品発表するよりも、わかりやすいのではないかと思ってこの個展名にしました。今年の東京での個展も「line(ライン)」という言葉が入る予定です。

—デバイスやテクノロジーとの距離の取り方で気をつけていることはありますか。

林 作品制作後は、次の日にはウェブ上にアップロードしています。アトリエにある全ての作品は未発表作品も含めて画質は落としていますが公開しています。「芸術だから」「オリジナルだから」と周囲が尊敬して、それに美術家たちが安住していた時代もありましたが、今は色々なものとの垣根が無くなってきて、美術も数あるエンタメの一つにすぎないとう風潮にあります。ですので、きちっとした画集があって、額に入ってないといけない、個展は新作でないといけない、既成の在り方にこだわりすぎてしまうと、誰ともつながらなくなってしまいます。あまりに拘泥するより、タンブラー(https://www.tumblr.com/)などのSNSで発信して、素材であれ、まずつながりの始まりは何かにレイアウトされることで構わないと思っています。到底そのようなかかわり方だけで飯を食うレベルには達しませんが、誰かに使われることによって、次第に何かの線につながってきます。

—お若い頃の話題ですが、何人かの作家から、林さんは20代のころ、作品を持って全国の画廊巡りをしていたと聞いています。

林 青春18切符を使って背中には作品背負って、野宿をしながら画廊を巡りました。作家仲間には「林の若い頃のような売り込みや営業は出来ない」なんて言われたりもしましたが、自分としては大学の4年間の学費は出してもらったので、大学院は自分で作った「授業料」を背負って売ってなんとかして学費を捻出する必要がありました。ですので、当時の自分としては、そのときやらないといけないことを、できることを自己責任でもってやっていただけです。その頃からや芸術の特殊性という考えは好きじゃありませんでした。

ー芸術の特殊性が好きではないとは、どういうことでしょうか?

林 あくまでステレオタイプな例えですが、絵を描く人というと、生活がめちゃくちゃでも、パトロン的な養ってくれる人がいて、好きに絵を描いて生きていて、そういうあり方が好きじゃありませんでした。実際、そういう特別を自他ともに語る人たちがおります。ですが、僕らが生まれた民主的な土壌のもと、生まれや育ちじゃなくても絵描きが出来るんだ、という気風が自分の核にはあります。特殊性について、他の仕事は飯を食う為の仕事で、これは芸術だからと区別して制作をするという考えはとりません。芸術活動だからと、特別な予算をもらったり、何かの枠組みに頼ったり……そういった風潮が自分は嫌でした。誰にも頼らないために自立するには、まず今ある場所できっちり仕事をする必要がありました。今ある場所で自立出来ないと、どこでも自立出来ないと思います。自分としては、日本中の美術館に画廊、美術大学が無くなっても、絵描きとしてやっていく気概はあります。

ーそういった自立的・行動的なエピソードも強いのかもしれませんが、作品からは「風」「拡散」そういったイメージが思い浮かびます。

林 絵柄が描けなくなったということです。神様を描こうとすることは、どこかおこがましいことに近いような……。何かを具象的に描くと、自分で勝手にフレームを与えることになってしまいます。そうでない!と願うほど、なにもかもモノでなくなって、次第に風や線がテーマになってきました。顔を描くと「こういう顔が美人で」「気難しくて、変な顔をしているのが今の流行りで」……自分はそういう流行からモチーフを外したい意識があります。

—だから、発散、発生するようなモチーフにつながるということでしょうか。

林 むしろ発生する場面が多いですね。宇宙的であったり、植物的であったり。

—植物的なインスピレーションというのは、ご自宅の菜園と関係は?

林 それは年々かなり強まってきました(笑)。絵を描いているより、草取りをしているときの方が無心で幸せですね。元々、土いじりが好きでした。自分の絵は、対社会的なアピールが強いのですが……草取りはそういう社会性が無くて純粋に幸せです。作品を自分で大事にしておく、これは売りたくない、そういう意識はありません。自分の場合は、作品は自分のためには制作していません。社会に対して、自分の考えを出すための方便として作品があります。絵が介在することによって、意味を成す仕事としているので、作品はアトリエに置きっぱなしにしておくべきものではないです。制作行為は自分のためですが、出来上がったものはそうではないですね。その感覚は、子育てや子どもの存在もそうだと思います。家や近くに置いておくのではなくて、自分がいなくても自立して飛び出ていくものというのかな。作品や子孫も何事も、正当さに差別はありえなくて、今生きているということは、記録があるにしろないにしろ、歴史をたどれば全ての人間はつながると思います。この一族は由緒正しくて、あの一族はそうでなくて、栄えていて没落して、身内には成功者がいて犯罪者がいて、そういった区別も好きじゃないのですが、たどっていけばどこか同じ線で生きてきたから、今生きている私たちがいるのだと思います。そういう部分で私はつながりたいです。

 

D-12.Jun.2018(ペン画・雁皮紙にアクリル顔料絵具/2018年  42 ㎝ × 28 ㎝)

[略歴]
林 孝彦(はやし たかひこ)
1961 岐阜県に生まれる 東京芸術大学大学院にて学ぶ
1986 第54回日本版画協会展・協会賞
1987 第3回西武美術館版画大賞展・優秀賞、東京芸術大学大学院修了
1989 第19回現代日本美術展・東京都美術館賞
1990 現代の版画1990(渋谷区立松濤美術館)
1992 第21回現代日本美術展・ブリヂストン美術館賞
1994 シガ・アニュアル’94版の宇宙(滋賀県立近代美術館)
1997 現代日本美術の動勢・版/写すこと/の試み(富山県立近代美術館)、文化庁買上優秀美術作品披露展(日本芸術院会館)
1999 生の視線/創造の現場(武蔵野美術大学美術資料図書館)
2001 press「版画再考」展(5.28-6.16 文房堂ギャラリー・神田神保町)、個展「I walk 2001」(6.4-6.16 ギャルリー東京ユマニテ・京橋)、第46回CWAJ現代版画展(東京アメリカンクラブ・神谷町)
2010より毎年、全国画廊・有志版画家と協力して、人気版画家のクリスマス限定版画を安価で求めることができるリトルクリスマス展を企画、開催。

筆塚稔尚

3年ぶり2度目の個展に際し、作家の筆塚稔尚さんが埼玉県よりヒロ画廊まで打ち合わせも兼ねてお越し下さいました。(2020年1月18日)
 
ヒロ 今日はようこそお越しくださいました。ただ、道中の筆塚さんに連絡を取ろうと思っても携帯を持っていらっしゃらない。やはり、何かこだわりがあるのでしょうか?
筆塚 外に出掛けたら目先の変化に対応する方が面白いですからね。電話を持っているとどうしても拘束されますし。
 
ヒロ 少し大げさかもしれませんが、生きている中での空気感を得られたいのでしょうか。
 
筆塚 本当に必要であれば、自宅の固定電話の留守電や、パソコンのメールもあるので「つながる」方法はいくらでもあります。年に一度か二度ですね「携帯、今あれば便利だろうな」と思うことは。今日も学文路駅から降りたら公衆電話が無いんですよね、少し不安にはなりましたが、近くにガソリンスタンドがあったので、店主さんに「すみませんが、代金支払いますので電話をお貸しください」と交渉して、ヒロ画廊に電話しました。何も持っていない方がかえって周囲を見渡せて、会話も生まれやすいと思います。
 
ヒロ スマホやインターネット社会になって、電車内の光景も昔と変わりました。筆塚さんの場合、社会の風景の変化が作品に反映されるのではないでしょうか。
 
筆塚 先ほどのような視点で観ているので、何らかの影響はあるでしょうね。
 
ヒロ 共感者は絶対数で言えば少ないでしょうが……100人いたらおひとりが反応してくれたら良いですよね。経験則ですが、ヒロ画廊以外の街中で展示会をしたとき、足を止めて会場に入ってくださる人は100人に1人、実際買って下さるとなると、来場された30人のうち1人だと感じています。ヒロ画廊が続いているのは、画廊とお客さん間でのストレスを減らして溜めないようにしているからだと思っています。
 
筆塚 共感を得るという点では、作家としては、自分の作品を「面白い」と感じてもらう人や場所を探す努力が必要です。それは画廊さんを探すことであったり、画廊の人に僕の作品の魅力を伝えてもらうことであったり。過去の作品と現在の作品も1人の人間が作っているので、僕の中では作品によってコンセプトを変えていますが、根っこの部分は全く変わっていないような気がします。それより、漠然と思っていたことが、はっきりと意識するようになりました。
 
ヒロ 画廊としては、ご紹介する作品や作家で有名・無名にはこだわっていません。ただ、筆塚さんは63歳になられますが、経験や年齢を重ねないと出てこない魅力は確かにあると思います。
 
筆塚 30歳のころは絵で生活は成り立ちませんでしたので色んな仕事を経験して、人の手に作品が渡るようになったのは、バブル経済崩壊後でした。
 
ヒロ  それでも、良い方かもしれませんよね。
 
筆塚 最近は、画廊のオーナーたちが同年代や年下になってきました。若い人たちと仕事をして、接点を持ったり話題に追いついていかないと、という意識も強いです。あと、大学をはじめ、教える現場にもいました。これからの自分に対して戒めを込めて言いますが、自分の芽を潰しているのは自分なんだ、と。色んな所からチャレンジして、これは自分とは違う、これは少し合う……そうやって自分の世界を探し続けないといけない、結局その繰り返しなんだ、と。あとは、自分が死ぬまでに、もう何回か自分の知らない自分と出会いたいです。今日の外出もお正月ぶりです(笑)。家でこつこつ制作している方が、私は性に合っていますね。
経つ影 50 x 70 cm 木版画・2003年
 
[略歴]
筆塚 稔尚(ふでづか としひさ)
1957 香川県生まれ
1981 武蔵野美術大学 造形学部油絵学科卒業
1983 東京芸術大学 大学院 美術専攻科終了
2010年より林孝彦氏とともに「版画の種まき」を目的に「リトルクリスマス展-小さな版画展-」を全国各地の画廊・美術館で企画・開催。毎年、数十名の有志作家と協力し、10年間で約13,000点の版画作品の普及に努める。

中林忠良

銅版画家・中林忠良氏の個展に際し、埼玉県にあるアトリエでお話を伺いました。

中林忠良(以下、中林) 廣畑さんというお名前から「ヒロ画廊」と名付けられたわけですね。

ヒロ画廊 代表 廣畑政也(以下、ヒロ) はい、苗字が由来なのと、気持ち的にも末広がりに「広がっていけば」という意味も込めて開廊しました。画廊の近くには紀の川が流れていまして、たまに氾濫して困ったりもするのですが、もともとは祖父の代までは農業が家業で、父は勤めでしたので、私がこういった仕事を生業として始めたのは突然のことでした。

中林 そうでしたか。画廊が高野山の麓にあると聞いて、学生時代に高野山のお寺で泊まったことを思い出しました。確か途中、電車を降りてケーブルカーであがっていったような……。

ヒロ 今でもケーブルカーはあります。他県の作家が来場された際は、その足で高野山詣りする方もいらっしゃいますね。

中林 もう数十年前のことなので記憶も曖昧ですが、全く知らない場所でもなさそうですね。


銅版画家 中林忠良 氏

ヒロ 中林先生はずっと埼玉にお住まいなのですか?

中林 私は品川生まれで、結婚して貧乏絵描きでした。最初は練馬に住んで、だんだんと遠くに引っ越していって、今の住まい(埼玉県ふじみ野市)は住み始めて40年近くになります。

ヒロ そうでしたか。画廊で紹介する作家も東京で活動しやすいといった理由で埼玉にお住いの方は多いです。

中林 画廊のスタイルとしては、基本的に企画でされているわけですね。

ヒロ 私どもの画廊の業態ですが、一般的な企画画廊と同じように、色んな作家にコンタクトをとって展覧会をお願いしています。絵画、彫刻、陶芸…ひとつひとつの展示や仕事に作家のみなさまとのご縁があって、それにお客様が反応してくださって、今まで経営が成り立っています。展示会の準備や仕事がとんとん拍子で進むケースもあれば、遅々としてすすまない場合もあります。ところがあるときに、今までの点が線となって前進するような……今回は、ヒロ画廊でご紹介しています画家の安藤真司さんがキーパーソンとなってくれて、中林先生の展覧会を開催できることになりました。ちょうど私たちが中林先生にコンタクトを取り始めた頃、先生は香港での個展「枯榮之間」でお忙しくされていました。

中林 香港での個展は当初30点ほどの展示と聞いていたのですが、ギャラリーのキュレーターのアイディアで床置きの展示になったようでした。この方々は日本における僕の展覧会図録を丁寧に読み解き、コンセプトをよく理解しての思い切った展示に行き着いたようでした。

ヒロ 展示動画を拝見しましたが、インスタレーションとしての見せ方が強いですね。

中林 国営放送で取り上げられたようで反響も多く、会期も2ヶ月延長してもらいました。ところで、今回の個展にあたって、具体的なモノがあると展示のイメージがしやすいので、ヒロ画廊の模型を作成しました。

今回の個展に際し、中林氏が作成されたヒロ画廊の模型

ヒロ ここまでの模型をまさか作られると思っていませんでした(笑)。和歌山から埼玉に来る道中「先生の作風は具象というよりも抽象的な要素が強いよね」という話になり、画商間のとりかわす言葉で表すと所謂「難しい絵」になってきます。だからこそ、初期からどう変わってきたのかという変遷を伝える展示作業を丁寧にしたいです。

中林 そうですね、初めての場所での展示なので、作風を全体的に俯瞰できる展示がいいですね。

ヒロ どうしても、一般の方がわかりやすい作風となると、植物や静物・風景といった作風になってきます。一方で、抽象の作品はコレクターとなりうる方と出会うと、大コレクションされる方が出てくる……先生のアトリエに今回お邪魔して、ぜひ生で見ていただきたい思いがより一層強くなりました。お客様方の新たなコレクションがはじまるきっかけの展示会になれば、と。最後に、あまり年齢には触れたくないのですが、先生は現在84歳で、過去のインタビューでも語られているように、戦時下の疎開先である新潟で見た雪の風景が表現の根幹とされています。

中林 作家といっても色んな生き方があるからね。一概には言えないけど……大方の作家は自分探しなんでしょう、作品を通して。自分というのはどこから来てどこに行くんだろう、というのは大きな命題として持っているわけですよ。そういう作家たちというのは、自分の過去に目を向けざるを得ない。過去に目を向けて作品化することによって、そこから「卒業」して次のところへ行く。それが、作家の普通の生き方なんじゃないのかな。

【売約済】転位’07-地-Ⅱ( エッチング・アクアチント・ドライポイント / size 56.0 x 76.5 cm / Ed. 47/50 / 制作年 2007年 )

中林 忠良 Tadayoshi NAKABAYASHI
1937  東京府品川区大井山中町に生まれる
1959  東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻 入学
1963  東京藝術大学 卒業 、東京藝術大学大学院 美術研究科 版画専攻 入学
1965  東京藝術大学大学院 美術研究科 版画専攻 修了
1973  日動版画グランプリ展・グランプリ
1975  文部省派遣在外研究員としてパリ国立美術学校、
ハンブルグ造形芸術大学にて研修(-1976)
1982  第14回日本国際美術展・和歌山県立近代美術館賞
1983  第1回中華民国国際版画ビエンナーレ・国際大賞
1986  ソウル国際版画ビエンナーレ国際大賞受賞
1997  中林忠良-腐蝕銅版画-白と黒の世界展(池田20世紀美術館)
2003  紫綬褒章 受章
2009  「中林忠良-すべて腐らないものはない」展(町田市立国際版画美術館)
2014  瑞宝中綬章 受章
2017  「腐蝕の海/地より光へ- 中林忠良銅版画展」(川越市立美術館)
2019  「中林忠良展 銅版画-腐蝕と光」(茅野市美術館)、
 「中林忠良銅版画展 -腐蝕の旅路」(O美術館)
現在  東京藝術大学名誉教授、大阪芸術大学客員教授、日本版画協会 理事、
    日本美術家連盟 理事長

岩切裕子

2020年3月にヒロ画廊で岩切さんの個展を初めて開催しました。それ以降、コロナ禍が本格化してしまいましたが、制作姿勢の変化もあったのではないでしょうか。

 この2年間、最大の変化は夫が在宅勤務になったことです。以前日中は自宅アトリエでひとり自由にやっていた生活のリズムが崩れ、緊急事態宣言で準備していた展覧会は中止になり、世界中が停止してしまったようで途方に暮れました。ですが、もっと厳しい状況に立たされている方々もおられるのですから、私だけ安穏と作品を作って発表するような贅沢はもう許されないかもしれないとも思いました。
 外出もままならず、美術館も休館が続く中、絵を見に行きたいという思いが日に日に募りました。いままで当たり前のように享受していたものが突然無くなってしまった分、NHKの日曜美術館の録画を何度も見ながら飢えた気持ちを鎮めたものでした。そしていち早く現代美術館が再開した初日には、文字通り飛んで行きました。マティスがカバーと内装を手がけた大型本「Verve」と「Jazz」には心身ともに癒されるような心持ちがしました。入館者も少なく、ほとんど会場を独り占め状態。自粛の鬱憤を晴らすように隅から隅まで舐めるように見て、自分だったらどういう風に作り、どう見せるだろうかなどと考えながら至福の時間を過ごしました。
 そしてあらためて気づいたのは、やはり自分はものを作ることが何よりも好きなのだということ、それを見せる場所がないのがこんなに虚しいものなのだということでした。自分が制作できるのも、その発表の場があるのも決して当たり前ではなく、それを見る人に届けることができるのはこれ以上ないほどの幸せなのだということでした。
 ウィーンフィルの指揮者リッカルド・ムーティが、2021年の無観客開催のニューイヤーコンサートを前に言っていました。音楽のない、芸術のない人生は味気ないものだと。芸術はあってもなくてもすぐには困らないものかもしれません。でもそれを失ったとき、どれほど空虚な思いを抱くものかということが身に沁みてわかりました。コロナ禍で多くの人が苦しみ、多くのものを失ったのは悲しい事実ですが、それであらためて気付かされたこともたしかにあったのです。

版画でも銅版画や石版画など種類があるなか、木版画を選ばれたきっかけというのは?

 私が学生だった80年代当時は、現代美術の全盛期といって良い時代だったと思います。絵が描きたくて美大の油画科に入ったものの、周りはコンセプチュアルアート一色、それはそれでリアルタイムに面白い経験もしましたが、私としてはやはり絵が描きたかった。どうやらそれができそうなのは版画だと思い、興味を持ちました。最初は銅版をやるつもりでしたが、金属の質感にどうしても抵抗があり、エッチングでは腐食の時間がさっぱりわからずにすぐさま断念しました。同様にリトは薬品がうまく使えず、描いたものがそのまま反転して出てくるのが物足りなくてやはり断念。消去法で残ったのが木版だったというのが本当のところです。木版だけはあり得ないと思っていましたが。
 なぜなら銅版もリトも線で描くことができますが、木版では仮に細い線を使いたくても、彫刻刀で彫るそれは柔らかさにはほど遠い稚拙なものにしかなりません。そこで描線という概念をいったん捨て、色面で考える必要がありました。

 小川洋子と堀江敏幸による架空の往復書簡で構成された「あとは切手を、一枚貼るだけ」 。友人からのエアメールをコラージュした外函に、14 通の書簡に合わせた版画14点を収めた作品。

時計回りに彫刻刀、バレン3種、モデリングペースト、筆、サンダー、マチエール版

 多摩美の木版はアカデミックなところがなく、よく言えば非常に自由、反面ほとんど野放し状態でしたので、自分で何とか創意工夫するほかありませんでした。私は油画科出身だったので(3年次から選択で版画)、油彩のように柔らかいタッチは出せないかと試行錯誤した結果、在学中に現在のようなマチエール版による技法にたどり着きました。私の作品は一見すると木版には見えないかもしれません。油彩のようなタッチが欲しければカンヴァスに描けば良いだろうと思われるかもしれません。ほとんどの版画家がそうだと思うのですが、油彩や水彩のような直接技法ではなく、七面倒くさい版を介した間接技法が性に合っているのです。たぶん作品に対するアプローチの仕方が違うのだと思います。照れ屋なのかもしれません。自分の高揚した感情を画面に直接ぶつけるのが苦手なのでしょう。下絵を描き、それをトレースして版を起こす手間と時間をかけるうちにだんだんと自分が冷静になり、ともすれば作品から遠ざかり、客観的になっていくように思えてきます。出来上がった作品は自分の感情からはずいぶん離れたところに存在しているような気がします。この感覚は、版画という間接技法ならではないかと思います。 また、木版の魅力のひとつは木目の美しさです。これだけは油彩でもほかの版種でも得られないものです。「版が仕事をしてくれる」とよくいいますが、狙い通りに木目を生かせたときには、自分の力の及ばないものが働いているような気さえします。

普段、制作で大切にしているアイテムはありますか?

 木版は凸版ともいわれます。凸面に載せられたインクを摺りとることが基本です。この凸面は彫刻刀で彫って作るだけではありません。異素材を貼り付けて版にすることをコラグラフといいますが、これはフランス語のcollage(貼り付けるの意)とgraphic(版画の意)を合わせた造語です。古くは月岡芳年も部分的に布地を板木に貼り付けて空摺り(エンボス)に用いていました。近年では木版画家の萩原英雄さんなども取り入れられるなど、現代版画では比較的ポピュラーな技法です。私の技法のベースはこのコラグラフです。これをマチエール(素材)版と呼んでいます。この版を作る際に、モデリングペースト(アクリル絵具用の溶剤)を筆などで載せていきます。そこに油性インクを載せて摺り、乾いたのちに水性版を重ねることで木版でありながら油彩画のような筆触、柔らかなタッチを得ることができます。この技法は言葉だけではなかなか伝えづらいのですが、これはほんの一例です。版画家は道具好きな人が多く、私もその例に漏れずさまざまなものを使用します。彫刻刀やバレンは言わずもがなですが、とくにどの道具が大切というよりも自分が表現したい手段として何が必要かが重要になります。画家が筆や絵具を選ぶのと同じです。
 制作の際によく手に取るのはやはり画集です。実際に訪れた展覧会の図録を含めると、画集は何冊あるのかわからないほどです。意外?にも現代版画はそれほど多くなく、普段開くこともあまりありません。タブローが多くを占めていますが、浮世絵や琳派、仏像仏画、陶芸やガラスなども時折眺めています。
 よく手にするのはクリムトの風景画だけを集めた画集です。これは現在神奈川県立近代美術館の館長をしておられる水沢勉さんが翻訳・監修に当たられたもので、私が(空想上の)風景画を制作するきっかけとなったものです。主にオーストリア南西部の湖周辺を描いたタブロー(全て正方形)で、絢爛豪華なクリムトのイメージとはかけ離れた、とても穏やかで幸せな風景画です。画集なので愛読書という言い方が適切かどうかわかりませんが、あえて言うならこれがいちばん大切なアイテムかもしれません。

クリムト画集 Die Landschaften Johannes Dubai 著 水沢勉訳 リブロポート発行

 画集など視覚的なものだけではなく、本を読むこともとても重要です。本を読まないと作品が作れないと言っても過言ではありません。本をテーマにした作品も作っています。読むのは小説が多いですが、詩集やノンフィクションなども。言葉を追いながら新しいイメー ジが広がっていくのを待つのです。いろいろな言葉のかけらから目の前に広がる風景を想像し、構築していきます。
 作業そのものには直接関係ありませんが、音楽のCDもなくてはならないものです。アトリエでは必ず何かをかけています。主に弦楽やピアノ曲が多く、とくに好きなのはバッハとブラームスで、グレン・グールドのバッハは飽きるほど聴いています。グールドは来日したことはないはずですが、日本贔屓?だったようで、漱石の草枕が愛読書だったそうです。グールドの住まいがあったトロント郊外の湖の風景を、いつか作品にしてみたいと思っています。

今、訪れたい場所や会いたい人を教えてください。

 小学校からの同級生が小さい頃からヴァイオリンをやっていて、高校卒業後ウィーンに渡りました。当時はメールどころか電話もおいそれとはかけられず、手紙だけが唯一の通信手段でした。まだ見ぬ異国からのエアメールを心待ちにしたものです。大学生になってから何度か彼女のところを訪れています。ウィーンは何といっても音楽の街です。オーケストラに所属した彼女にくっついて、コンサートやオペラに連れて行ってもらいました。モーツァルトの「魔笛」や「レクイエム」など、何もかもに魅了され、圧倒されました。  音楽のみならず、ウィーンは美術館も充実しています。ハプスブルク家が誇る圧倒的なコレクションの数々を見ることができます。クリムトの風景画と最初に出会ったのも、夏の離宮であったベルヴェデーレ美術館でした。そして分離派美術館、圧巻のベートーヴェン・フリースに出会えます。前回ウィーンに行ったのは3年前。いまでは電話も気軽にかけられるし、顔を見ながら話すこともできますが、やはり彼女や彼女の家族にまた会いたい。そして音楽や美術にどっぷり浸かりたいと願っています。

ウィーン分離派美術館 (Secession) クリムト生誕150年記念で特別に足場が組まれ、ベートーヴェンフリースを目の高さで見ることができました(2012年)。

作風から北欧のイメージが湧いてきますが、影響を受けられた作家というのは?

 前述しましたが、ウィーンではクリムトやシーレ、フンデルトヴァッサーの作品に触れる機会が多く、またブリューゲルやボスなどフランドル派の作品も充実しています。それらには少なからず影響を受けていると思います。北欧には行ったことがありませんが、最近ハマスホイなどデンマークの画家も好きです。2年前、コロナで展覧会が中止になって本当にがっかりしたものです。日本の作家では有元利夫さん、画面からチェンバロやリュートの音が聴こえてきそうで、絵から音楽を喚起させるということにはいまだに憧れを持っています。
 これらの作家とは時代も作風も異なりますが、マーク・ロスコも好きな作家です。いつまで見ていても飽きることのない静かな佇まい、絵の前から離れ難くなるような強烈な存在感、それでいて何かを思い起こさせる既視感、その先に何があるのだろうといつも考えさせられます。  たとえば画廊や美術館で一度通り過ぎたあとに何か気になって、もう一度戻って同じ作品の前に立つことがあります。そんな風に強烈ではないけれど何となく頭の片隅に残る、もう一度見たい、あるいはずっと見ていたいと思ってもらえる、作家としてはこんなに幸せなことはありません。

ウィーン美術史博物館での特別展示 マーク・ロスコ展 (2019年) たまたま開催されていて大喜びしました。

「elm tree house Ⅰ」 2022年 木版画 画寸 17.0 x 16.0cm

「auf den Balkon」 2011年 木版画 画寸 52.0 x 19.0cm

岩切 裕子 Yuko IWAKIRI
1961 東京都渋谷区生まれ
1988 多摩美術大学大学院美術研究科修了(木版画専攻)
1989 平成元年度文化庁芸術家国内研修員
現在 日本版画協会理事、日本美術家連盟会員
作品収蔵:文化庁、町田市立国際版画美術館、練馬区立美術館、宮崎県立美術館、
相生森林美術館(徳島県)、黒部市美術館(富山県)、須坂版画美術館(長野県)、
HOKUBU絵画記念館(札幌市)、国立浙江省美術館(中国)