川口紘平

—川口紘平氏の個展に際し、大阪・東心斎橋にあるモルトバーにてお話しをうかがいました。

川口 マッカラン12年をロックで。

マスター かしこまりました。チェイサーもお付けします。

—私は…今日のマスターの気分でお願いします。

マスター では、今日は暑いのでグレンリベット12年のハイボールをお出ししますね。

—普段、出歩るかれるのはバーが多いですか。

川口 かっこつける訳じゃないんですが、美術館が多いですね。どっかでなんかやってへんかなって、気軽に。 批判的な目線で観に行くときもありますよ。夜はほとんどバーか、ご飯を食べに出歩いてますね。何回か通って、お店の方と仲良くなるというのも面白いですね。

—マスターのお店も、常連の方が新しい方を気さくに迎えられているような気がします。

マスター 確かに、ウイスキー専門という少しマニアックなお店なので、ご紹介から定着されるパターンが一番多いですね。

川口 (一番上の棚を眺めがら)ラベルで飲むとお会計がえらいことになりそうですね。

マスター 金額は全てボトルの裏に記載してますので、そっと見ていただいてもらっております。あんまり高いものをご注文されたら「大丈夫ですか?」とお聞きすることもございます。

—紘平さんは、若い頃からバーやお酒はお好きでしたか。今もお若いですけれども。

川口 今年38歳になりましたが…21歳の頃に友達や兄がバーで働き出したころ、家に空き瓶を持って帰ってきてもらっていました。それを題材に、片っ端からお酒 の絵ばかりを描いていましたね。空き瓶ばかり見てるのもなんなので、飲み始めたというか。「高いお酒の絵を描いて」と言われることもあるんですが、飲まないと描かないことにしてて…そしたら頂いたりしますね(笑)。

—制作中はやはり何か聴かれながら?

川口 音楽は絶対聴いてますね。昔は、聴いていた曲の情報や歌詞を絵に描いていたこともありました。ボンッと大きく絵がある周りに字がいっぱいあったりとか、お酒のラベルを題材にするなら「Macallan」という字がはみ出していったりとか。

マスター ウイスキーのボトルラベルや風景画を描かれるようになったきっかけというのは?

川口 お酒の絵はさっき話した友達の影響が強くて。風景画だと、パリの街並みがやっぱり憧れなんですよね。 20歳の頃、佐伯祐三という画家を知って、その人はしっかりパリを描いてはるんですけど、今まで絵画教室で習ってきたきっちりした奥行きや線が狂ってないか、という基本的なことを彼は完全に無視しているんですよね。 自由な線があったんですよね、佐伯の絵の中に。 「むっちゃ自由やねんな」って。そこから、やりたいことやったらええねんや、思って。でも、最初の頃はパリの風景を描くと、佐伯祐三みたいな感じにどうしてもなるから怖くて描けなかったですね。真似なんて言われるのも嫌だったので、(風景を描くのを)やめていたんですけど。初めてパリに行ったら「描いて良いわ」と思いました。生で見ると、描きたくてたまらなくなりました。佐伯祐三に似ていると確かによく言われますが、段々「違うことが出来てるな」っていう自分なりの自信が固まってきたので、最近はほとんどパリの街並みを描いています。

マスター パリにはよく行かれてらっしゃる?

川口 今まで、4回ですね。

マスター 1回だけ私も行ったことがありますが…非の打ち所がない街でした。圧倒されました。なんでこんなに爽快なんだろう、と。

川口 綺麗ですよね。丘に登ると、エッフェル塔や凱旋門も見えて。楽器なんて弾いたら気持ちええでしょうね。

—ライブをされると聞きました。

川口 たまに近所のバーでギター弾き語りもさせてもらいますよ。吉田拓郎とか井上陽水、泉谷しげる、松田優作…彼の『横浜ホンキー・トンク・ブルース』なんか好きですね。『プカプカ』って曲を出した西岡恭蔵って知らない? ー知らないですね。お父さまの影響ですか?

川口 父がピーター・ポール&マリーという古いフォークを聴いてて、彼らの『風に吹かれて』を知って、それはボブ・ディランが作ったということを知って、ボブ・ディランが大好きになって、彼を聴き出したら吉田拓郎が出てきて…それが中学校1年か2年の頃でした。だから、周りの友だちとは音楽の話なんて全然合わなかったですよ。そう振り返ると、音楽の影響というのは強いですね。今はパリの風景がメインですが、いつかもっと音楽の世界観を出せる絵を描きたいですね。

—今の作品には、ご自分で考えられた詩をプリントアウトした紙を貼り付けられたりもされていますね。

川口 伝統的な絵画団体の方からは「こういう風にしていいんですね」なんて驚かれたりもします。デザインの学校を出たりそういった仕事を一時していたので、グラフィック的な自由な感覚が自分の中には生きているのでは、と思っています。詩は読まれるのが少し恥ずかしいので、少しだけわかりにくくしていますが。

マスター (詩などを通じて)ストレートに自分の考えを訴えられる、ということは?

川口 (詩や文字の羅列は)ここに文字的なものがほしい、という感覚なんですよね。特に意味らしい意味は持たせていません。よく、絵に一から十まで数字を描いていたりするんですけど、見に来られた方はすごい意味があるのではと考え込まれる方もいらしたりします。ただ、僕の場合は、描いているときの勢いや思いつきが形になっているので、作品にメッセージ性は特に無いですね。

—作り手と受け手の思いが一致することは、確かに難しいかもしれません。

川口 受け手に合わせていたらきりがないですから。 作品タイトルのネーミングもその点難しいですね。やはり便宜上ないと困るので付けるのですが…絵のモチーフにしたレストラン名を単純に付けることもあります。 「(受け手に)そう思ってほしい」というネーミングはあまりしたくないですね。

マスター 作為的なことはあまりされたくない、と。

川口 「なんでもあり!」と思いたいんですよね、見る人も描く人も。

—当初デザインの道にすすまれたというのは、デザイナー志向があったのですか?

川口 いえ、芸大受験をしてて、京都市立芸術大学を目指していました。1浪しているときに「そこまで頑張って行く必要あるのかな」と疑問を持ったりして。当時の高校の先生には「絵描きは60歳でも新人と呼ばれる世界なんだから焦らなくていいんじゃない?」と言われたことも大きかったですね。そこから、とりあえず生計を立てるためにデザインの勉強をして、デザイン事務所に就職しました。新聞広告の仕事がメインでしたが、ストレスも溜まったりして割とすぐに退職しました。ラガブーリン、ロックでください。

—いまさらですけど紘平さんって、よく話されますよね。寡黙な方とよく思われるのでは?

川口 思われるんですよね、寡黙でクールなんじゃないか、とか。でも、個展で会場に在廊した日はお客さんにおもろいこと言おう言おう思っていますね。 ー大阪人らしいですね。

川口 お酒飲んだら特に喋りますね。だから、昼間はあんまり喋らないですよ、前の晩のお酒も残っていたりして。これだけ喋るようになったのはバーに行くようになってからですよ、知らない人と隣になったりして、お喋りして、そんなんの繰り返しですよ。

—デザイナー志向ではなくて、やはり画家になりたかったということで。それは小さいときから?

川口 幼稚園の時から画家になると思ってましたね。 資格やテストもないですし。今ほど仕事として絵を描いていないときでも、家でイーゼルを立ててキャンバスを置いて、特に何を描くというわけではないのですが。 そういう空気感に自分が酔っていたところもありました。

—紘平さんがパリの街並みを見て「描きたくてたまらなくなった」という衝動…芸術家はそういう衝動を持たれている様な気がします。音楽家、彫刻家、陶芸家、…楽譜を書かずにはいられない、彫らずにはいられない、手を動かさずにはいられない。そのような内面から湧き出る感覚というのは特別な才能なのでしょうか。

川口 誰しも持っている感覚なんだろうとは思います。それはある種の欲望なんですよね。「何かしたくてむずむずする」っていうのが。だから、ある意味そういう(芸術)活動を続けている人は「子ども」なんだと思うんですよね。欲望に忠実な。描きたくてたまらへん、でも色んなことあるから出来へん、っていうのが大人になったらわかるじゃないですか。やりたいことをやるための環境づくりは大人になっているのかもしれないですけど。自分の中にある、根本にある…欲望を吐き出したいというのは「子ども」の延長なんちゃうかな。 ラガブーリン、おかわりください。段々こういう考えに固まってきたというのはあります。若いときは、画家って人とは違う特別なこだわりがあらないかんやろか、とか。でも、そんなプライドは自分にとってはふさわしくないな、と思うようになってきて。

—個性を求めて、没個性になるというような。

川口 そうそう。人が感動するような絵を描こうと思ったら、人のこと知らなあかんし、人とちゃんと喋るということが出来ないと…感動させるということは出来ない、と。百貨店や画廊での個展となると、みなさん緊張して来られたり質問されるんですね。そんなときは、描いている時に演歌や英会話が流れてしまうことを話したりして。 でも気軽な話をしても、来られた方はやっぱり目に見えてるものに「すごい」と思ってもらっていて、そこに現実があるわけやから、蔑ずんでは見られていないですよね。そういう、日頃の背景も交えたりすることで、心の紐がほどけたら…もっと純粋に絵を見れるんとちゃうんかな

(売約済)Cafe Chappe(アクリル・キャンバス/2015年 95㎝×95㎝)

[略歴]
川口 紘平(かわぐち こうへい)
1979 大阪摂津生まれ
2000 大阪デザイナー専門学校卒業
2002 個展・パステルハウスM/大阪・天神橋
2004 欧美国際公募キューバ美術賞展・優秀賞、個展・パステルハウスM/大阪・天神橋
2006 欧美国際公募フランス美術賞展・入選
2007 HERATLAND KARUIZAWA DRAWING BIENNALE・入選
2008 個展・Night Market 2F/大阪・福島
2009 個展・Casa La Pavoni/大阪・北新地 個展・炭味家/大阪・福島
2010 個展・Green Art Gallery/兵庫・尼崎、 個展・長崎浜屋百貨店/長崎・浜町
2012 個展・大丸心斎橋店 特選ギャラリー、個展・長崎浜屋百貨店/長崎・浜町
2013 個展・仙台三越 アートギャラリー/仙台、IFA展(IFA国際美術協会) 招待出品/大阪市立美術館
2014 個展・心斎橋大丸 美術画廊 / 大阪、 IFA展2014(IFA国際美術協会)/ 招待出品/大阪市立美術館
2015 個展・仙台三越 アートギャラリー/仙台、個展・東武百貨店 池袋店 / 東京、IFA展2015(IFA国際美術協会) / 招待出品/大阪市立美術館 個展・BAR 㐂坐吽 1F/大阪・福島
2016 個展・東武百貨店 池袋店 / 東京
2017 個展・岡山高島屋 / 岡山、 個展・さいか屋藤沢店 / 神奈川、個展・米子高島屋 / 鳥取
2018 個展・Casa La Pavoni / 大阪・北新地

コボコーヒー

小堀博史(コボコーヒー株式会社 社長、以下 小堀) 橋本さんが、12年前にお客様としてお店に来ていただいてからお付き合いが始まりましたよね。

橋本康彦 オープンして2年目ぐらいだっけ?美味しい本物のコーヒーとパンが大好きなんだけど、京都から千早赤阪村に引っ越してきてから、ずっと探してたのね。それで三日市町駅の前に「こんな所にコーヒー豆屋さんがある!」って見つけて、次第に行き着けになってね。豆もいつも60種類もあるからいろいろ試せるしね。小堀さんとはお付き合いが長いよね、共通の趣味はないけど(笑)。

小堀 私の方は、橋本さんから「京都で展示会するから、見に来てください」と誘っていただいて。行ってみると作品に私も妻も圧倒されて。次第に工房にもお邪魔させてもらったり、ここのお店にも羊の彫刻(写真左上)を飾らせてもらようになりました。

橋本 ヒロ画廊は、コボコーヒーと画廊に来てる西本さんを通して一昨年知ったよね。先に画廊に行ってみた小堀さんから話しを聞いて「橋本さんも行ってみてくださいよ」って。そこから、ヒロさんとはお付き合いが始まったよね。去年の2月は画廊で個展もしてもらって。

小堀 そういう美術に関するお話を聞くようになって、一門の系統を聞いたら、橋本さんの師匠にあたる澤田政廣さんが高村光雲の孫弟子なんですよね。光雲の「老猿」は、僕らみたいな素人でも印象深いんですよね。美術の教科書にも載ってますし。で、橋本さんと知り合ってから関心も湧いて東北に旅行したときも、岩手の花巻市にある高村山荘にも行ってみましたね。光雲の息子の高村光太郎が、乙女の像を造るために住んだという。あそこも、うまいこと保存してあって趣があって良い所でしたね。

橋本 親子でも生き方がそもそも違うんだよね、光太郎は芸術家肌で、光雲は江戸っ子の職人肌だからね。ちょっとこんな風に、画廊に行きだしてから小堀さんたちとの間でも話題や人の輪が少し増えたよね。

コボコーヒー三日市町店
〒586-0048 大阪府河内長野市三日市町 231-6
電話番号:0721-60-5005
営業時間:8:00~19:00
定休日 :金曜 駐車場 :あり
http://cobo.coffee/

坪内好子

ヒロ画廊のレギュラー作家として長年ご紹介している銅版画家・坪内好子さん。神奈川県鎌倉市内にある坪内さんのアトリエのそばには、ご主人でオーナーシェフの馬場周吾さんが切り盛りされるフランス料理店「ビストロ ラ・ペクニコヴァ」が隣接しています。馬場さんは、帝国ホテルのシェフとして20余年過ごされ、在スロヴァキア共和国日本大使館での勤務を経て、2011年に同店をオープンされました。 アトリエとレストランを訪れた後、北鎌倉のハイキングコースを南に抜けて、由比ガ浜をゴールにお二人と歩いてみました。

聞き手・構成・撮影=廣畑貴之


―鎌倉に移られてからお変わりなどはありませんか。

坪内 鎌倉に移ってからは狭いですがお庭が出来たので、庭いじりを始めたらすごく楽しくて(笑)。今の趣味はお庭の手入れとスイミングですね。越してきたときは庭には緑も何も無かったのですが、レストランへのアプローチと、家の周りのちょっとした部分をいじりはじめて。夫からは「もう暗いけど……」と呆れられるほど、日が落ちるまで庭にいることもしばしばです。あと、鎌倉に来てからは、健康維持と気分転換のためスイミングを始めました。今ではすっかりハマって、マスターズ登録をしてマスターズ大会に出たり、海の大会にもエントリーしています。

―それまでは港区にお住まいだったと聞いています。

坪内 はい。スロヴァキアに留学したとき夫と出会って、結婚を機に鎌倉に移りました。私としてはアトリエをそろそろ移したい時期でもありましたし、彼も独立を長年考えていました。お互い地縁は無かったのですが、漠然と「鎌倉なんて良いよね」と話していたところ、自宅兼アトリエ兼レストランを建てるのがベストという考えに至りました。レストランも2011年に始めて、もう丸6年になります。

―普段の時間の使い方ですが、制作とレストランの仕事、それに主婦業と趣味の時間で充実されていそうですよね。

坪内 レストランの仕事は思った以上に時間を取られていて、ほぼ一日中と言っても過言ではなくて……時間は限られていますがやりくりして作品制作をしています。アイデアややりたいこともいっぱいあって、本当はもっと集中しておもいっきり制作したいのですが、今は時間が圧倒的に足りません。スイミングも、もっと早く泳げるようになりたいですし、充電の旅もしたいですし、作品もバリバリ作りたいですし、自分がもう一人、二人欲しいですね。

―アトリエには他の作家さんの作品をたくさん飾られていますね。作家が作家性の強い作品をそばに置かれているのは珍しい気がします。

坪内 そうですか?では、このアトリエは他の作家さんのにおいがぷんぷんしているかもしれません(笑)。わたしはやはり版画が好きで、アトリエや部屋に飾ってある物もほとんどが版画作品です。お気に入りはリチャード・デイビスという物故の作家で、HIVにより1991年に46歳と言う若さで亡くなっています。名古屋の画廊さんで目にしてとても気に入りそれから少しずつ集めはじめました。ほかには、詩情あふれる温かな作風に惹かれて山中現さんが好きですね。私には作れない世界です。あとは、駒井哲郎さんも好きです。他にもスロヴァキア時代の友人が描いた作品に、姪が描いてくれた作品も飾っています。

―(壁一面の本棚を見て)これだけの本や資料というのは……。

坪内 資料であると同時に作業に行き詰まるとよく手にします。もともと古い本や古地図が好きでしたので、スロヴァキア留学時はアンティークヴァリアート(古本屋)に通い古本屋のおじさんとも仲良くなってたくさんサービスしてもらいました(笑)。また友人やお世話になった方からいただいた本もあります。

―留学されたきっかけというのは?

坪内 カーライ先生の緻密さやユーモアがありグロテスクな世界観に惹かれて、留学を決めました。緻密という点では、針で彫って描いていくのが仕事ですよね、銅版画家という仕事は。一連の作業の中、針で描いている時間が私は一番楽しいです。版の上で「描きすぎじゃないかな?」ってほど描き込まないと刷ったときに深さが出ないんです。

―深さ?

坪内 絵自体の重厚感とか奥行き、厚みというのでしょうか。私は描き込んで描き込んで絵の奥深さを追求したいんですよね。たとえば、気球シリーズのバルーン全体には細かく点描を施してあります。仕事をそこに入れておくかそうでないかというのは刷ったあとの仕上がりが全く変わってきますから。なにより、描き込みたいんです。線だけさっと引いて、色をフワッと入れて仕上げてゆく方法もあると思いますが……それでは私のなかの「やりたい」という欲求が満たされなくて。

―過去に仰った「版を刷るとき、版と対峙する時間を大切にしています」という言葉が心に残っています。

坪内 エディションナンバーが私の場合、大体95番までと比較的多いんですよね。最初に刷り出した版だと、自分の中でも初対面の方と会うような「あ、はじめまして……」という感覚があって(笑)。でも、長く付き合っていくと作品に対してなじみや愛着が出てきますね。

―作られる人だからこそ向き合える感覚ですよね。

坪内 そうかもしれません。特に版を刷る過程での愛着の湧き方というのは版画ならではなのかなと思います。

―(ご主人で、ラ・ペクニコヴァのオーナーシェフ・馬場周吾さんが合流)坪内さんは接客業にかかわるというのは初めてだったのでは?

坪内 会社勤めをしていた時、あるメーカーのショールームに籍があり少しだけ接客の勉強をしました。でも夫はそれに加えて私が寺で育ったことが活かされているのではと言います。

馬場 彼女の人当たりの良さというのは、レストランを切り盛りするうえでとても助かっていますね。というのも、お寺さんって色んな方が出入されるじゃないですか。彼女の性格は、多様な方々と出会っているからじゃないかと思います。

―ご主人の馬場さんは、スロヴァキア日本大使館付の料理人になられた経緯というのは。

馬場 長年勤めていた帝国ホテルが外務省とのかかわりがあるので、その一環で上司から提案されて、その場で「行きます」と即答しました(笑)。というのも、やっぱり外、特に外国へ行きたかったんですよね。特にスロヴァキアに行きたかったわけではなく、たまたまです。

―たまたま行った国で画家と知り合ってご結婚され、縁もゆかりもない鎌倉でレストランを開かれて……。

馬場 人生わからないものですね。

坪内 私もカーライ先生が当時教鞭を執られていたのがたまたまスロヴァキアでしたのでそこに向かったわけですから。

―(由比ガ浜に到着)波の音が気持ちいい……。坪内さんは強気で一匹狼のような方だとずっと思っていました。というのも、会派に属されてないですし、絵画教室を開かれているわけでもないなか、ネットワークや販路を作っていく必要がありますよね。

坪内 (会派や教室指導などは)自分の性に合わないというのもありますしね。型にはまることで(経済的な面など)安定することもあるのでしょうが……幸いお付き合いのある画商さんがみなさん熱心で現在制作が注文に追いつていないので、今はもっと作品を作りたいですね。

―坪内さんにはヒロ画廊オープンの頃から個展をしていただいています。

坪内 廣畑さんには作家活動の初期のころからお声をかけていただいていますが……ああいう裏表のない雰囲気の方が好きなんですよね。人柄が容姿ににじみ出ているというんでしょうか。作家としては安心して作品をお任せすることが出来ます。自分が年齢を重ね経験値があがってくると、仕事にかかわる人に対して見方が変わってしまう場合もありますけど、廣畑さんは昔から変わらないです。ヒロ画廊さんの半地下の包み込む空間も相まって、話しやすいお人柄に惹かれているお客様も多いのではないでしょうか。

―確かに、画廊では商談やお取引に加えてご自分にとって大切なことを話してくださる方が多いですね。

坪内 実家が寺院ということもあって、思いを伝えたり何かを吐き出すことの大切さというのはずっと身にしみていました。人が亡くなり家族の中で誰かが欠けるということは、それまでのバランスがどうしても崩れてしまいます。関係性もいびつになってしまったり、相続でも揉めたりなんだかんだして……。そういう話やシーンを子どもの頃から目の当たりしていると、吐き出せる場というのは本当に大切なんだなというのは実感しています。しかも、関係性や血縁がないからこそ吐露できる考えや思いというのはありますからね。

―ご主人の馬場さんからは坪内さんの画家という職業、作家の仕事はどのように映りますか。

馬場 月並みな言葉ですが……創造的だなと思います、自分1人でゼロな状態からモノを創り出していくというのは。あとは、ラ・ペクニコヴァの内装などは彼女のセンスが活かされていますので、彼女がいなかったら今みたいな形態にはならなかったですね。だから、夫婦ではありますが同志のようにも思っています。

―お二人とも本当に好きなことを仕事にされていて、ご自分の時間を大切にされているように感じます。

馬場 でもいくら好きなことを仕事にしていても、当然周りが求めるテイストや結果に応えないといけない、モノを作る人が必ず苛むジレンマがありますよね。私の場合「帝国ホテル」の料理というカチッとした伝統のブランドと規格に沿って料理を提供しないといけない、という意識とプライドが当然根付いていました。そういう「型にはまった仕事」の取り組み方は今のレストランのオープン後もしばらくは続いて「明日のコースだと、今からこの仕込みをしないといけない」から仕事時間が深夜まで続いていた時期もありました。でも、彼女の仕事ぶりを見ていると、自分が本当にやりたいこと、自分のスタイルを突き通していますよね。絵や仕事に対する自由さ加減というのかな、もっと自分の好きなようにやればいいんだと思えるようになりました。

坪内 私は逆に「(作家として)変わり続けないといけないのかな」と思っていた時期もありました。けれど、夫と暮らすようになって、仕事をともにすることで「このまま自然に任せて変わって行けばいいんだな」とありのままの自分を受け容れられようになりました。

mener qu en bateau Vll (エッチング・金箔/ 440×590 mm)

[略歴]
坪内 好子(つぼうち よしこ)
1966 東京生まれ
1989 女子美術大学芸術学部絵画科版画専攻卒業
2005-2007 ブラチスラヴァ(スロヴァキア)美術アカデミーにてデュシャン・カーライに師事
現在、日本美術家連盟所属

《コレクション》
黒部市美術館・ロサンゼルス・カウンティ美術館・女子美術大学・ブラチスラヴァ美術アカデミー

三星善業

陶芸家・三星善業の個展に際し、旧知の間柄であるお二人、高野山・無量光院にお住まいのスイス人僧侶・クルト厳蔵さん、兵庫県神戸市北区にある弓削牧場(有限会社箕谷酪農場、有限会社レチェール・ユゲ)の弓削和子さんにそれぞれお話しをうかがいました。

聞き手・構成・撮影=廣畑貴之

―長年取り組まれているラオスでの学校建設も含め、今年は民放のテレビ番組に出演されたりお忙しそうですね。

クルト 昨日も仕事で京都と大阪に行きましたが、やはり人が多いですね。このインタビューの前には、ありがたいことにナショナルジオグラフィック社からの取材もありました。ただ、自分にとってはもっとスローなペースが合っているように思います。

―(高野山の街を歩きながら)交通量が増えましたよね。

クルト そうですね。週末は特に関西圏から車で観光に来られている方々が多いです。私の出身のスイスだと、高野山ぐらいの規模の街や村だと規制があって、車は一日のうち決まった時間にしか行き来できないですね。フィレンツェの街も、朝の搬入時間のみ車両が出入れして、その時間を除いては、昼は歩く人たちであふれますね。

―三星さんとは15年のお付き合いとうがかっています。

クルト 高野山に来て、彼の師匠である目黒威徳さんを知ってから、三星とは知り合いました。出会った当初、彼は陶芸の仕事と新聞販売の仕事で生計を立てていました。毎日彼のアトリエ・山日子庵の前を通っては、ヨーロッパでは感じたことのない陶芸の美しさを感じていました。スイスなどヨーロッパの画廊では陶芸の取り扱いはまだ少ないですからね。また、職業柄多くの方々と出会いますが、三星もそうですが陶芸家の方々は特有の静けさを持っている印象があります。現代の心理テラピーのうち、芸術療法で陶芸が取り入れられていることは何ら不思議ではありません。

―クルトさんは得度されて20年、三星さんは陶芸の道に入られて30年。長く続けられたことで見いだされた価値といのはありますか。

クルト 宗教者は別として、芸術に美術、音楽の世界というのは、年齢を重ねてから磨きのかかる仕事や生き方だと思います。多くの方は、60歳を過ぎるとリタイアされたり、体力などの衰えによって当然生活のスピードを緩めます。でも、芸術の世界というのは、単に作品の善し悪しだけではなくて、その人の生き方が徐々に反映されていきます。正直に取り組んできたか、そうでないか……。ビジネスに目が行きすぎると、not impressive。少しも心を打ちません。商業的なねらいは作品を作り上げたあとにほんの少しだけあればいいのでは、というのが私の考えです。というのも「作る」と言うことは、人生の大切な時間を切り売りしているわけですから。「本当に好き」「今、これがしたい」「今、これをしなければならない」……”love”、”want”と”must do”がアーティストにとっては必要なのではないでしょうか。

―芸術家という職業に限らず、仕事や趣味の範囲においても「自分が本当にやりたいこと」「好きなこと」を放置しておくと、それを実現するためのスタートは当然遅れますし、知的好奇心も薄いままになります。知ることや動くことに飢餓感も生まれなければ、日常生活に差し支えはなくても、どこか虚しさを抱えたままになってしまって、本来的な意味で自分を大切にしているとは言いがたいかもしれません。

クルト その点で、三星は30歳を機に建設業の技術者をすっぱり辞め、陶芸の道に入りました。話は少し大きくなりますが、日本人は間違うことや逸れることを極度に嫌いますよね。失敗に寛容ではない。情緒を大切にする一方、散々言われていることですが同調圧力がやはり強い。これは海外から来た身としても、とても不安に感じます。なぜなら、ときどき間違うことが、新しいアイデアを生み出しますよね。「失敗は成功の母」という手垢のついた格言があるように。というのも、彼の窯焚きを何度も見せてもらいましたが、すべてをコントロール出来ないんですよね。自分ですべてを決めることが出来ない、思い通りにはならない……でも、それが一番面白い。これは、日本だと生け花や茶道も同じだと思う。空間に生きた動きが入ることで、その場が有機的になる。三星の場合は、高野山で収集できる薪での窯焼きにこだわって、陶に生命を吹き込んでいるように感じます。高野山という土地と陶の芸術が一体になって、ぽとりと生まれるスピリチュアルな「美」……私が彼に惹かれているものでしょうか。

クルト 厳蔵 Kurt Kubli Gensō  

1950年生まれ。スイス・チューリヒ出身。イタリアの美術大学を卒業。1997年に無量光院の修行僧となる。得度して役僧として働く一方、外国人観光客向けのテキストやガイドを5か国語で行う。2008年には、国土交通省が任命する「YOKOSO JAPAN大使」に選出。海外からの旅行者やメディアに高野山の魅力を紹介。高野山への外国人観光客の増加に貢献し続けている。また、ラオスの貧しい農村出身の見習僧が学ぶ中・高校の教育を充実させたいと計画し、日本各地やスイスなど海外4カ国の資金援助により、2009年にラオス北部の古都ルアンプラバンに校舎2棟を新築する。

弓削 三星さんとのかかわりですが、学生時代、私はワンダーフォーゲル部で、彼は探検部でしたがワンダーフォーゲル部にちょくちょく顔を出していました。互いの部も交流があって、知り合ってもう30年以上経ちます。

―それ以来、三星さんとかかわられているということは、弓削さんも何か創作をされていたのですか?

弓削 大学卒業後にOLを一年したものの、そこが自分の居場所ではないと思い、その後いわゆる自分探しで墨絵や創作人形をしていました。無所属の洋画家・宮田為義さんに勧められて個展を開いたこともありました。師事した宮田さんの「雲一つないところに、良い作品は出来ない」という言葉が今でも心に残っています。作家の方々は皆さんそうだと思うのですが……自分の中にあふれるものを作品というかたちにされていますよね?そういった、高い水準で感受性を保って生計を立てることは並大抵のことではないことを知らされました。

―確かに、作家活動のみで生活を維持されている芸術家の方はほぼいないように思います。基本的には、家族やパートナーの支えを受けられたり、教室指導や学校での講師のお仕事など、生計を立てるための別の手段を持たれている方々がほとんどです。

弓削 そのような経験もしてから、弓削牧場に嫁ぎました。ただ、嫁いで10年程して生産調整の影響で乳価が低迷していた時期でもありました。主人は50頭の牛たちと、これからどうやって農場を守っていくか悶々とする一方で、ここ(農業)は可能性に満ち満ちている場所だと私は感じていました。そこから、何もないキャンバスに絵を描くように私なりの「アート」が始まりました。

―嫁がれてから手掛けられたことは?

弓削 3人目の子どもを出産してすぐ、主人の強い希望にそって、ナチュラルチーズの原型といわれるフロマージュ・フレとカマンベール作りのサポートです。30年前、世間でカマンベールは認知されかけている一方、フロマージュ・フレというものは全く知られていませんでした。また当時の酪農家は、牛の育成には精通していても、牛乳やチーズへの興味や関心は今ほど高くありませんでした。ですので、弓削牧場独自のチーズを作ろうと試み、最初は当時50年前に発行された洋書の「ザ・ブック・オブ・チーズ」を翻訳して、試行錯誤を繰り返し2種類のオリジナルチーズを完成させました。その後「より美味しい食べ方も提供したい」と思い、チーズハウス・ヤルゴイを建設しました。

―今では結婚式場としても弓削牧場は人気のスポットとうかがっています。

弓削 今現在120組以上挙式していただきました。ですが、挙式される方には必ず自己主張をしてもらっています(笑)。

―自己主張というと?

弓削 普段私たちは乳製品で自己主張をしています。単にお金をいただければ良いという仕事にはしたくありません。ご結婚される方も思いがあって一緒になられるように、私たちも思い入れがあってこの場所で仕事や生活をしています。気持ちの面だけではなく、立地上、牛や牧草のにおいもしますから、親御さんなどがご納得されない場合もありますからね。挙式される方と参列される方々に満足してもらいたいからこそ「なんで弓削牧場なのですか?」という理由をきちんとお聞きしてからお受けしています。

―では、三星さんの作品を使われているのにもそれなりのこだわりが? 弓削 のちに人気メニューとなった「生チーズの冷や奴風」を提供する当初、どのように盛り付けるか思案の最中、彼の作品に出会いました。電話で「これぐらいの直径で」と伝えたのですが、話したものより小さい作品が届きました。でもかえって、こじんまりして何か民藝的な雰囲気を受けました。「冷や奴風」にはフロマージュ・フレ(生チーズ)にお醤油とすだちも添えるので彼の素朴な作風がぴったりだったのですよね。私は、弓削牧場のメニューへのこだわりは三星さんの器でないと伝わらないと思っています。

―今回弓削さんにお話しを聞かなければ、神戸で三星さんの作品が30年も使われていることは知らないままだったかもしれません。

弓削 彼はシャイでアピールをしないですから……そのうえ見かけとは違って繊細で。でもそれは決して悪いことではなくて、自分自身を大切にして、大きく見せようとはしないということですから。昔から変わらない彼の美意識に違いないですね。

弓削牧場 YUGE Farm
〒651-1243 兵庫県神戸市北区山田町下谷上西丸山5-2
営業時間:11:00 ~ 17:00 (※15:00~カフェ)
定休日:水曜日(1・2月は火・水曜)
http://www.yugefarm.com
電話番号:078-581-3220 (9:00 ~18:00)

神戸の市街地から車で20分。六甲山の裏側でチーズ作りを主体とした酪農を営まれています。50頭の牛たちは24時間、自由にのんびり過ごしています。牧場内には、牛舎、チーズ工房、菓子工房、レストラン、ハーブの庭や畑があります。チーズハウス(レストラン)では、自家製のチーズやハーブを使ったオリジナルメニューやスイーツを召し上がりことも出来、ゆったりとした空気が牧場内には広がっています。(尚、観光牧場ではありませんので、飲食物の持ち込みはご遠慮下さい)

[略歴]
三星善業(みつぼし よしなり)
1951 和歌山県・高野山に生まれる
1980 目黒威徳氏に師事 森岡成好氏に師事
1986 高野町神谷に築窯 独立
1996 高野町杖ケ藪に穴窯築窯
現在、高野町杖ケ藪(旧杖ケ藪小学校)で穴窯による灰釉と焼き〆の作品を制作