松永白洲記念館

「文字伝達の手段、教育の一環……色々な意見がありますが、書や篆刻というものはその人の精神性を現すものと思っています」(真鍋井蛙)  

篆刻家・真鍋井蛙さんの個展に際し、真鍋さんと生前の交流があった書家・松永薫(号:白洲)の作品を展示され、真鍋さんが今なお篆刻と書の指導でかかわりのある大阪・藤井寺市の松永白洲記念館を今回訪れました。 松永白洲は、1913年(大正2年)生まれ。教育者としての仕事のかたわら地元に腰を据えた創作活動を行われました。生家は大和川のほとりで、ちょうど大和川付け替工事の基点の辺りにあり、号の「白洲」も大和川の砂を意味されます。旧家の記念館は、江戸時代に建てられ、高天井に太い梁が黒光りし、ご先祖の御典医が用いたという薬箪笥や、往診に使った駕籠が現在も保存されており、座敷の壁一面には、白洲が制作に励んだ作品が飾られています。記念館の館主で、白洲の長男である松永明さんにお話しをうかがいました。

聞き手・構成・撮影=廣畑貴之

—松永白洲記念館の成り立ちを聞かせてください。

館主 松永明 生前、父親である白洲からは「自分が亡くなったら……1回だけ遺作展をやってくれ」そのように言われていました。遺言通り、藤井寺市のパープルホール(藤井寺市立市民総合会館)を借りて展示会を行いました。遺作展はとても盛況で、なかには「(白洲先生の)16回の個展で一番良かった」という声もありました。その後、記念館の前身である白洲の家を私が64歳の時に相続しました。遺作展後に「また展示会をしてください」という声がたくさんあったこともあり、その2年後に「家を白洲記念館にして、作品を見てもらおう」という発想につながりました。私と妻(松永節子さん、右頁右下写真右から二人目)とで、誰か一緒にやってくれないかと身内に相談したところ、妹(古野英子さん、最下部写真右端)夫妻が手を挙げてくれました。そのようにして、この家を引き継ぐことで記念館は細々とスタートしました。

—真鍋さんとの出会いというのは?

松永 真鍋先生との出会いですが、この記念館の近くにある潮音寺の水野悟游さんが毎月一回十人くらいで、篆刻の会を開かれていました。そこに、真鍋先生が篆刻を教えに来られていたことがきっかけです。真鍋先生は当時30歳ぐらいだったでしょうか。そこに、父が近所だからと、 ちょくちょく顔を出していました。真鍋先生は父の話になると「白洲さんが来られたら……いつもお酒のにおいがぷんぷんで」と仰いますね(笑)。父は、自宅で一杯引っかけてから印材を持って教室に行っていたようです。

—その頃の真鍋さんは、日展の篆刻部門で初入選されて、気鋭の篆刻家として名を馳せ始める時期です。松永さん自身はそれまで、展示の仕事の経験はあったのですか。

松永 一切なかったです。転勤族のサラリーマンでしたので。記念館をスタートした当初は、ほこりを被ってしまった作品のクリーニングや書作品ごとの写真撮り、サイズ測定……1740点の作品のリストアップ等に3年かかりました。ただ、最初に話した「遺作展をやってくれ」とは別に、「週三日は必ず、家に風を通しに来てくれ」とも父からは言われていました。結果的に、記念館を始めたことで、土曜・日曜・月曜の週三日この家に風を通すことになりました。記念館をオープンして以降は、藤井寺市も観光案内パンフレットと地図に掲載してくれるなど、次第に知名度も広がっていきました。人と人とのご縁も産まれる一方で、地域の歴史が発掘された資料館としての責任も生まれてきました。

—「地域の中」という点で、近年では行政や自治体が「コンパクトシティ」の都市計画を掲げ、健康増進と医療費削減を目的に、ウォーキングやスタンプラリーのイベントが全国各地で増加しています。松永白洲記念館も近鉄(近畿日本鉄道株式会社)のイベントをはじめ、多くのコースに組み込まれています。

松永 このインタビュー直前にも「第2回河内の古民家めぐりスタンプラリー」で大阪市内から年配の方が来られました。私は一期一会のご縁を何よりも大切に、来られる方々が納得していただける様な説明を心がけています。わざわざ足を運んでくださっているのですから、ただ来てもらって終わり、ということにはしたくありません。記念館の成り立ちや大和川周辺の歴史、そういった知識を得てもらい、気持ちよく過ごしてもらえるようお迎えしたいです。そうすることで、その方が新たな方をご紹介してくださる傾向も強く感じています。昨年には、貴重な写真を新たに発見しました。

1923年(大正12年)4月、駅舎の前に大阪鉄道株式会社の重役が並んで写っています。この駅舎は現在の近鉄南大阪線の起点である大阪阿部野橋駅で、開業3日前の写真です。94年後の現在、この場所には日本で最も高いビルである「あべのハルカス」がそびえています。近鉄さんにも無い貴重な資料です。そのほか、1897年(明治30年)の河陽鉄道の工事で、イギリス・ロンドンから輸入した橋梁を大和川に架設する際の記念写真には、今では考えられませんが子供を抱いて写真に納まる職人の姿もありました。

—人口減社会に加え空き家の増加、芸術上・歴史上価値の高いものを守る文化財保護法の観点もあり、近年ではリノベーション、カフェやアートイベントでの利用など、古民家を再活用する動きが活発です。

松永 そうですね。やはり国の方針としては、古来の日本的な家屋の維持と減少に歯止めをかけたいようで、重要文化財や登録有形文化財になることで相続税などが減税される現実もあります。最初に話したように、この記念館を始めること自体そもそも考えていませんでした。たまたま相続した家があり、どう使っていこうかと親族と色々な意見を出し合って、この形に落ち着きました。ただ、自分たちにいくらバイタリティがあるといっても、今のペースでいつまでも活動出来るわけではありませんからね。私は現在80歳ですので、体に不調が出て車の運転もいつか出来なくなるかもしれません。これからの課題としては、白洲の作品は記念館で完結できますが、大阪鉄道に関する資料をはじめ、江戸後期100年間四代六人の漢方医の諸資料、その前の庄屋時代の古文書等々……そういったものをどのように後継していくか。歴史の中で人間は当然生きていますからね。「家」だけ残っていても形骸に過ぎません。今ある資料を適切な資料館や研究機関など、受け皿となる場所へバトンタッチして、自分たちのやり方で文化を継承していきたいです。

—リタイアされた多くの方が、その後趣味に没頭されたり、次の仕事を探されたり、地域活動に従事されるなど、世間との新たなかかわり方を模索されます。松永さんにとって、記念館の運営が「定年後」のライフワークであり、お父さまやご先祖と対峙する時間になったということでしょうか。

松永 ライフワークではなくて、「ここにあった芸術や文化を発掘」している心境ですね。 家族から薄々は聞いていましたが、作品を整理していくなかで大量の油絵が出てきたこともあり「父は絵描きになりたかったんだ」と確信しました。けれど「芸術で生計を立てられるのか?」と祖父から反対されて、師範学校にすすんだようです。でも、絵は描き続けていたこともあり、遺作展では若い頃の油絵作品を展示出来ましたので、少しは本望に添えたのではと思います。

—作品や建物に人とモノが行き交い、「空間が生きて」いるか、そうでないか。目には見えないですし、データとしては表れないですが、五感に響くものは確実にあるように思います。今日は記念館に入って、すがすがしい空気を私は感じました。

松永 そう言っていただけると、大変嬉しいです。三日坊主で終わらずに記念館を維持できているのは、真鍋先生はじめ周りの方々の支え、イベント時には妹婿・哲夫さんはじめ、妹・英子の「楽しい一筆」教室のメンバー50名が記念館のスタッフとして総出でお客様のおもてなしをしてくれています。これらは、本当に心強いです。教室の展示会を催したときなど、出品者は当然お知り合いをお招きされますよね。そのようなときに、自分たちの作品を批評し合ってサロン風にゆったりとされたり、すぐそばでは白洲と真鍋先生の説得力のある作品があり、鉄道資料や漢方医資料や古文書を見入られる方……そういった「人の輪」が循環していることで、地域社会の中でも存在感を示している確かな自負はあります。真鍋先生におかれては、記念館の題字(写真下)も揮毫してもらいました。書道の記念館としても、何かにつけてご指導いただいています。記念館で開催する先生の篆刻教室には、藤井寺市だけでなく富田林市、遠くは京都・奈良から習いに来られている方もいらっしゃいます。父が70歳にして近所の篆刻教室に行き、30歳の真鍋先生に教わったことがご縁となり……息子の私も先生のお人柄に魅力を感じさせて頂いております。

松永白洲記念館  Matsunaga Hakushu Memorial Museum

〒583-0003大阪府藤井寺市船橋町5-10 http://shu.no.coocan.jp 090-4306-6109 (館主 松永明) 駐車場 6台有 近鉄道明寺線・柏原南口下車 大和川を渡り徒歩6分

江戸末期に建てられた河内の民家をそのまま記念館として公開し、大和川を愛した書家松永白洲氏の奔放、多彩な作品が季節に応じて展示されています。記念館は”心ふれあうやすらぎの場”として、ご家族が公開提供されています。

髙橋直樹

―髙橋直樹さんは、ガラス工芸を生業とされてこの道40年。学校を卒業されてすぐにキャリアが始まったのでしょうか。

髙橋 今年で66歳になりますが、大学卒業後の1974年はガラス工芸を学べる場としてガラス工場を中心に職を求めました。ただ、オイルショックの時期も重なってどこの工場も人を雇える状態じゃありませんでした。ガラスって、製作に何が一番コストが掛かるかというと……燃料費なんですよね。絶えず1200,1300度の温度を保たなければいけないですし、火を一年中毎日焚いておかないといけませんし。それなのに、オイルショックとなると、世の中の景気は悪くなるし、モノは売れなくなるし……ちょうどそんな時期ということもあり就職先が見つかりませんでした。そんな具合でしたので、新宿にあった朝日カルチャーセンターの前身のような教室があって、ガラス教室に申し込んで習いに行きました。そこの先生が兵庫県西宮市の方で、矢野担先生でした。その当時ガラスを教えることの出来る方は少なかったですね。矢野先生は彫金も出来てアクセサリーも作られ、デザインまで出来る先生でした。そこではガスバーナーでガラス棒を溶かすバーナーワークを中心に学びました。入室するにあたっては、その先生にコネをつけてもらおうという考えも当然ありました。入室して半年経ったある日、「ガラス工場に就職したい」という旨を先生に告げると「知ってるところを当たってみるよ」と言っていただけました。先生のご自宅が西宮市で、近くに灘区の山村硝子(現・日本山村硝子株式会社)という一升瓶を作っていた製瓶メーカーが当時ありました。そこで、矢野先生から山村硝子の部長さんを通じて、のちに就職した大阪の四ツ橋にある岩津硝子の社長さんを紹介してもらいました。

―四ツ橋というと大阪の……

髙橋 心斎橋のすぐ隣で、大阪の中心街ですね。本社は四ツ橋で、工場は福島でした。ただ工場は駅前にあったことから騒音がのちに問題になって、工場は奈良県の桜井市に移転となりました。そしてその部長さんに「桜井市にある工場なら紹介出来るよ」ということで、岩津硝子に就職しました。全く関西に来たかったも何も無くて、場所はどこでも良かったのですが(笑)。その縁から奈良県には40年住んでいますね。

―髙橋さんの代表作、「卵と殻」作品は岩津硝子勤務時代に生まれています。

髙橋 「卵と殻」作品はこの岩津時代の昼休みに生まれました。東急ハンズコンテストの第2回だったと思うのですが、募集があったので応募したところ、デザイン賞を受賞できました。賞金も出ましたが、昼休みにひそひそと作ったものでしたので……みんなとの飲み代に消えました(笑)。その後も工場には勤めましたが、東急系の百貨店で展示会をしないかと声が掛かるようになりました。そのデザイン賞というのが西武美術館の館長さんの賞でしたので、次第に西武系の百貨店からも呼ばれました。職人をしていると、外とのつながりがほとんど生まれないのですが、受賞を機に外とのつながりも出来て、先のグループ展でも画商さんから注目してもらえるようになりました。

―「卵と殻」作品が作家活動の始まりとなったわけですね。

髙橋 そうですね。当初は職人仕事をしようと思っていたので岩津硝子の工場が存続していけば良かったのですが、同期や職人は年々少なくなって、お給料も遅配するわ、会社の状況が怪しくなってきて……。でも、矢野先生や山村硝子の部長さんの紹介ということもあり、ホイホイと辞めるわけにはいかないじゃないですか。仕事自体は面白かったですし、もっと職人仕事をしていたかったのですが、勤続10年を機に作家として独立しました。その後は吉野郡下市で山を切り開いて築炉したり、最終的には現在の明日香村に落ち着きました。

―元来何かを作るのがお好きだったのですか。

髙橋 ものづくりは、ずっと好きでしたね。生い立ちになると、祖父が町工場のネジ屋、それも信号機用の特殊なネジを作っていました。そんな家系ですので、父は東京計器株式会社で計測機器や実験器具を作って、定年まで勤めあげましたね。子どもの頃は、当時流行っていたラジコンの機械を作るために秋葉原に部品を買いによく行ってたりもしていました。父親も時々手伝ってくれていましたね。

―その後の、美術とのかかわりというのは?

髙橋 高校時代は写真部にいた関係もあって、美術館巡りや絵を見に行くのも好きでした。学生の頃、鎌倉の近代美術館で日本のガラス工芸を見て、当時はまだ作家活動をされている人は少なくて、黎明期だったんですね。自分がこの世界に入ったら面白いだろうな、自分が好きなモノは、世の中の人も好きだろう、という直感が湧きました。

―それはご自身が通用するという、確信があったということでしょうか。

髙橋 確信というより、世の中には偏差値というものがあるじゃないですか。自分の(美的)感覚の偏差値で言えば、両極端に外れてはいないし、特に芸術家肌でも異常者でもないので、ごく普通の嗜好を持っているとは思っていました。目立ちたがり屋でもないですし、ガラスは好きで綺麗で面白そうだし……自分は変わっているわけじゃなくて、自分がごくごく平凡な偏差値のなかでいたら、世の中の人も納得してくれるんじゃないのかな、って。

―高橋さんにはヒロ画廊で10回以上は展示をしていただいています。

髙橋 ほら、私って話が長いじゃない?昔、ヒロさんに「お客さんと長話しすぎです」ってチクリと言われたこともあったなぁ(笑)。でもヒロさんとはお付き合いが長い方で、一回きりで終わるギャラリーさんも当然あるし、人間の相性があるからね。売上の大小は、もちろんタイミングなどもあるから、深くは気にしません。画商さんやお客様から「こんなものが欲しい」という注文があれば作りますしね。

―終わりがない美術の仕事。「定年」という区切りがあれば欲しいですか。

髙橋 退職した同世代からは「良いな、定年が無くて」なんてこともたまには言われますが……。お呼びが掛かればね、いくらでも仕事しますよ。声が掛からなくなったら、作家として終わりですからね。

[略歴]
髙橋 直樹(たかはし なおき)
1951 東京生まれ
1974 日本大学理工学部交通工学科卒業 ガラス工芸家・矢野担先生に師事 ガラス制作を始める
1975 岩津硝子(10年間)吹きガラス職人として勤務
1981 吉野芸術村に築窯 個人用吹きガラス作品制作開始
1982 奈良にて作品展 以降各地にて個展
1983 明日香村阪田に築窯 自宅兼工房(明日香むらの吹きガラス)立ち上げ
1984 東急ハンズ大賞 デザイン賞
1985 世界ガラス会議コンテスト第3位
1985 西武アトリエヌーボー・コンペ 西武美術館長賞
1985 西部百貨店池袋店にて個展 フランス・ルアン美術館「Art du Verre」出品
1987 朝日現代クラフト展入選 工芸都市高岡’87クラフトコンペ入選 ニューヨーク「The Art of Japanese Studio Glass」 出品 阪神百貨店にて個展(以降2013年まで毎年)
1988 第8回天展入選
1989 東急ハンズ大賞 入選
1989 ジャパンデザインコンペティション石川入選
1990 関西ガラスアート展入選(~1991)
1994 明日香法15周年事業 出品並び記念品制作
1996 唐招提寺にて「奈良のいい仕事を育てる会」
1997 第3回新美工芸会招待出品
2000 内モンゴル自治区日本美術展招待出品
2010 中国上海ギャラリーM50にて5月個展
2010 第2回北の動物大賞展 入選
2011 大丸神戸店にて個展
2013 阪神百貨店第27回個展「1987~毎年」
2014 京阪百貨店守口店にて個展
2014 大丸神戸店にて個展
2015 大丸京都店にて展示会
2016 阪急西宮にて個展
2017 あべのハルカスにて個展

河野甲・コウノシゲコ

—今回滋子さんの作風は、(2年前の二人展から)強い変化を感じました。「人形の世界から現代美術の世界へ」ということになるのでしょうか。

滋子 6年前に無縁だった現代美術との出会いがあり、そしてその世界に惹かれ、以前の作品の流れとは違う作品となっているかもしれません。コンセプトが大切にされる現代美術において、何を表現したいのか、深く考えるようになりました。私が常に感じていることの中に(生き辛さを抱えて生きている人たち)というのがあります。身体や精神に障害をもって生きている人々です。けれど、だからこそ普通の人々には見えない素晴らしい世界が、覗き得ると信じてます。常識に縛られず本当の自分が分かれば楽になれる。今回のヒロ画廊での展示の全体コンセプトは「僕は本当は魚だったんだ」です。やはり生き辛さから自分らしさを取り戻す希望のメッセ-ジです。作品の技法は以前と同じで、作風は足し算から引き算ですね。

甲  妻の場合、心の苦しい部分も表現のベースになっています。そういう心の葛藤の中から生まれた最近の表現というのは、ちょっと飾って日常を楽しみたいというお茶の間的な美意識からすると、すこし重たいかもしれません。

滋子 目線を変えれば、その人らしく生きられる世界がある。世間の常識に縛られず…ということを今は考えているし、自分もそういう風にしていきたい。60歳だけれど、これからもそうしていきたい。

甲  彼女の場合、制作への取り組み方は、作品が売れる売れないという事からは解放されたように思います。ただ、この世の中で生きていくためにはどうしてもお金が必要ですよね。私には作品を売るという活動の中で、自己表現も曲げたくないというジレンマが当然ある。でも妻の場合は心の病を抱えていて、かなり生きづらく日々を送っています。なので、(なぜ、そのコンセプトの作品なのかという)必然性は出来るだけ全うした方が良いのではないか、という話は普段からします。その点僕は、現実にお金を生み出すというところで、世間が何を欲しているかというところはかなり考慮して仕事をしています。

—以前、甲さんとお会いした際「作品制作は納期などもあるから仕事としての意識がかなり強く、趣味のカタツムリ採集は純粋に幸せを感じる」というお話しが印象に残っています。

甲  いくら好きな事でも、生業にすると楽しいだけではなくなりますね。注文をいただくというのは本当にありがたいですが。

滋子 私の場合、昔の作品を注文していただくとなかなかたいへん(笑)。でも、とてもありがたいです。

甲  妻の場合、そのときに心が動いて作った物だから、(再び注文を受けたときは)心が過去のその状態じゃないからね。二人展ということで、二人で敢えてやる意味みたいなものも探れたら良いなとも思うのですが、無意識のうちにお互い影響を与えながら制作していると思います。そういう意味では敢えて意味を探らなくても、対比の面白さを感じて頂けるのではと思っています。

滋子 二人展の場合は、展示するギャラリーの雰囲気によって出品作品を主人と考慮していますね。

—甲さんの出品作品「右腕測定」の顔が滋子さんの作風に近づいているような気もします。

甲  確かに、この作品を出品すると「奥様の作品ですか?」とよく聞かれます。ある時期の妻の表現方法に影響を受けていると思います。基本的に、妻の作品は好きですね。ただ、僕は素材が革だったので、あまり乾いた感じの表現というのは素材感を生かせないと思っていたし、生き物をつくる時には革のウェットな素材感を生かすべきと思ってきました。でもドライな感覚には強い憧れがありますね。

滋子 三本足のシリーズは?

甲  三本足も(右腕測定)と同じ世界観で作っています。作品って、送り出す作家の思いと受け手のそれは当然様々で違うから、発信者と受け手が出会って、出会いの数だけ意味が生まれるわけでしょ。二番煎じではない、自分の中から出てくる表現だったら別に誰かに似てても構わないし、確かに妻の作品に似てるんですけど、似ててもいいやと僕は思っています。

—滋子さんは甲さんからの影響は?

滋子 受けてないかもしれないです。学生時代はすごく影響を受けました。私は美術全般に不勉強で、うまくもなかったし。(甲さんは)当時からうまかったですよ。本当に色々な世界を教えてもらいました。

甲  感受性が目覚める時期って人によって違うじゃないですか。僕の場合は中学・高校で目覚めた。彼女は短大を卒業した後に花開いたようです。僕は他人の作品に結構影響を受けやすいんですよ。20歳ぐらいまでは純粋に美術を見ることを楽しんでいました。けれど、作家活動を始めると純粋に見れなくなりました。こういうすごいのを作っている人がいる、というのを見ると、歪んだ影響を受けてしまう。ここ何十年も自分から他の人の作品を見るということはしなくなりました。目に入ってくるものは当然見るけど。今誰が活躍しているかも全く知らなくて、僕の場合自然のなかに入ってカタツムリ探していた方が楽しいじゃないですか。直接、自然から受けたインスピレーションを形にするようにしていますね。その方が自然な感じはします。葛藤が少なくて。

—片方で世間の傾向を捉えて、作品に落とし込まれる作家もいます。

甲  それが現代美術の流れですよね。個人に閉じこもってるではなく、社会とのかかわりのなかでね。「今」という瞬間を捉えるのが現代美術には違いないですから。あなた(滋子さん)は、今そういう世界に向かっているよね。

滋子 今後自分が現代美術にどうかかわるかはまだわかりません。昨日主人は東京アートフェアから帰ってきたばかりで、私はその図録を眺めていましたが、主人は全く見ないですね(笑)。

甲  言葉を弄するのではなくて、感受性というものを深く掘り下げていく手作業を作家には絶対必要で、その感受性を現代美術の作家は言葉にも換言できる作業をやっているんでしょうね。言葉で感受性を掘り下げるという作業をね。それがコンセプトというかたちに実を結んでいくのだと思う。

—自宅を改装した私設のカタツムリ博物館の計画もありますね。

甲  あちこちに喋ってるので、もうあとには引けないですね(笑)。仕事の合間に少しずつリノベーションしてます。標本も展示品も作っていかないといけないし、今年は忙しくなりそうです。 

—時間のある日はどう過ごされていますか?

滋子 映画ですね。映画館は苦手なので、DVDを借りてきて。心に残る作品では『嗤う分身』『エレファント・ソング』…沢山あります。映画の話になると止まらないです(笑)。映画の影響が作品作りに出ることもあります。2年前にはやはり映画のタイトルである「メランコリア」と題して作品に香りを足した展示も企画しました。

—甲さんは、ジャズがお好きですよね。制作中も聞きながら?

甲  ジャズは昔から聞きますね。一番心が癒やされます。でも制作中はラジオですね。今はもっぱらNHK第2。

滋子 ほら、あと歯舞とか国後とか言ってるやつ聴いてるよね。

甲  気象通報というのがあって、日本と周辺地域の気温、風力、気圧など、主要都市を巡って淡々と放送するんです。それがすっごく心地よくて。イメージするんですよね、行ったことのない場所を。ポロナイスクとかセベロクリリスクとか。地名も宮沢賢治っぽくて。どんな風景の場所やろう、って。ラジオから聞こえてくるモノトーンな感じがすごく好きで。僕は愛媛の宇和島という田舎出身なので、都会から送られてくるラジオ放送が混線したりするんですね。それが心地よかったというのがあるからかもしれません。そういうのが、ポエジーだと思うんですね。ポエジーを感じるというのが、僕の美術の基本なんですよ。(庭を眺めながら)こういう風景を見てても、妙に春めいて来る感じとか、風がぶわぁっと吹いて、南から風が運んでくる感じとか。誰もが感じることではあるんですけど。ポエジーを感じる瞬間というのが… それを定着させたいというのが僕の夢なんですよね。

河野甲「右腕測定」

コウノシゲコ「吟遊詩人」

[略歴]
河野 甲(こうの こう)
1956 愛媛県宇和島市生まれ
1977 京都嵯峨美術短期大学洋画科卒業 皮革造形作家 石丸雅通に師事
1984 皮革造形家として独立 京都に工房をもつ
1991 奈良県に移住
2000 京都府に移住
東京・大阪・仙台・奈良・京都・ニューヨークでの定期開催をはじめ、全国各地で個展を行う。
出版 作品集『しずかな八月』(求龍堂)、立体イラストレーションⅠ・Ⅱ(グラフィック社)

コウノ シゲコ
1956 和歌山県に生まれる
1977 京都嵯峨美術短期大学洋画科卒業
2000 京都府を拠点に活動
2008 大阪女学院モニュメント「聖家族」
2011・2013 MIDOW人形コンクール展 招待展示
2012 ギャラリー・ベリャエボ(モスクワ) 他個展グループ展多数

ラセン館 かたつむりミュージアム https://rasenkan.com

川口紘平

—川口紘平氏の個展に際し、大阪・東心斎橋にあるモルトバーにてお話しをうかがいました。

川口 マッカラン12年をロックで。

マスター かしこまりました。チェイサーもお付けします。

—私は…今日のマスターの気分でお願いします。

マスター では、今日は暑いのでグレンリベット12年のハイボールをお出ししますね。

—普段、出歩るかれるのはバーが多いですか。

川口 かっこつける訳じゃないんですが、美術館が多いですね。どっかでなんかやってへんかなって、気軽に。 批判的な目線で観に行くときもありますよ。夜はほとんどバーか、ご飯を食べに出歩いてますね。何回か通って、お店の方と仲良くなるというのも面白いですね。

—マスターのお店も、常連の方が新しい方を気さくに迎えられているような気がします。

マスター 確かに、ウイスキー専門という少しマニアックなお店なので、ご紹介から定着されるパターンが一番多いですね。

川口 (一番上の棚を眺めがら)ラベルで飲むとお会計がえらいことになりそうですね。

マスター 金額は全てボトルの裏に記載してますので、そっと見ていただいてもらっております。あんまり高いものをご注文されたら「大丈夫ですか?」とお聞きすることもございます。

—紘平さんは、若い頃からバーやお酒はお好きでしたか。今もお若いですけれども。

川口 今年38歳になりましたが…21歳の頃に友達や兄がバーで働き出したころ、家に空き瓶を持って帰ってきてもらっていました。それを題材に、片っ端からお酒 の絵ばかりを描いていましたね。空き瓶ばかり見てるのもなんなので、飲み始めたというか。「高いお酒の絵を描いて」と言われることもあるんですが、飲まないと描かないことにしてて…そしたら頂いたりしますね(笑)。

—制作中はやはり何か聴かれながら?

川口 音楽は絶対聴いてますね。昔は、聴いていた曲の情報や歌詞を絵に描いていたこともありました。ボンッと大きく絵がある周りに字がいっぱいあったりとか、お酒のラベルを題材にするなら「Macallan」という字がはみ出していったりとか。

マスター ウイスキーのボトルラベルや風景画を描かれるようになったきっかけというのは?

川口 お酒の絵はさっき話した友達の影響が強くて。風景画だと、パリの街並みがやっぱり憧れなんですよね。 20歳の頃、佐伯祐三という画家を知って、その人はしっかりパリを描いてはるんですけど、今まで絵画教室で習ってきたきっちりした奥行きや線が狂ってないか、という基本的なことを彼は完全に無視しているんですよね。 自由な線があったんですよね、佐伯の絵の中に。 「むっちゃ自由やねんな」って。そこから、やりたいことやったらええねんや、思って。でも、最初の頃はパリの風景を描くと、佐伯祐三みたいな感じにどうしてもなるから怖くて描けなかったですね。真似なんて言われるのも嫌だったので、(風景を描くのを)やめていたんですけど。初めてパリに行ったら「描いて良いわ」と思いました。生で見ると、描きたくてたまらなくなりました。佐伯祐三に似ていると確かによく言われますが、段々「違うことが出来てるな」っていう自分なりの自信が固まってきたので、最近はほとんどパリの街並みを描いています。

マスター パリにはよく行かれてらっしゃる?

川口 今まで、4回ですね。

マスター 1回だけ私も行ったことがありますが…非の打ち所がない街でした。圧倒されました。なんでこんなに爽快なんだろう、と。

川口 綺麗ですよね。丘に登ると、エッフェル塔や凱旋門も見えて。楽器なんて弾いたら気持ちええでしょうね。

—ライブをされると聞きました。

川口 たまに近所のバーでギター弾き語りもさせてもらいますよ。吉田拓郎とか井上陽水、泉谷しげる、松田優作…彼の『横浜ホンキー・トンク・ブルース』なんか好きですね。『プカプカ』って曲を出した西岡恭蔵って知らない? ー知らないですね。お父さまの影響ですか?

川口 父がピーター・ポール&マリーという古いフォークを聴いてて、彼らの『風に吹かれて』を知って、それはボブ・ディランが作ったということを知って、ボブ・ディランが大好きになって、彼を聴き出したら吉田拓郎が出てきて…それが中学校1年か2年の頃でした。だから、周りの友だちとは音楽の話なんて全然合わなかったですよ。そう振り返ると、音楽の影響というのは強いですね。今はパリの風景がメインですが、いつかもっと音楽の世界観を出せる絵を描きたいですね。

—今の作品には、ご自分で考えられた詩をプリントアウトした紙を貼り付けられたりもされていますね。

川口 伝統的な絵画団体の方からは「こういう風にしていいんですね」なんて驚かれたりもします。デザインの学校を出たりそういった仕事を一時していたので、グラフィック的な自由な感覚が自分の中には生きているのでは、と思っています。詩は読まれるのが少し恥ずかしいので、少しだけわかりにくくしていますが。

マスター (詩などを通じて)ストレートに自分の考えを訴えられる、ということは?

川口 (詩や文字の羅列は)ここに文字的なものがほしい、という感覚なんですよね。特に意味らしい意味は持たせていません。よく、絵に一から十まで数字を描いていたりするんですけど、見に来られた方はすごい意味があるのではと考え込まれる方もいらしたりします。ただ、僕の場合は、描いているときの勢いや思いつきが形になっているので、作品にメッセージ性は特に無いですね。

—作り手と受け手の思いが一致することは、確かに難しいかもしれません。

川口 受け手に合わせていたらきりがないですから。 作品タイトルのネーミングもその点難しいですね。やはり便宜上ないと困るので付けるのですが…絵のモチーフにしたレストラン名を単純に付けることもあります。 「(受け手に)そう思ってほしい」というネーミングはあまりしたくないですね。

マスター 作為的なことはあまりされたくない、と。

川口 「なんでもあり!」と思いたいんですよね、見る人も描く人も。

—当初デザインの道にすすまれたというのは、デザイナー志向があったのですか?

川口 いえ、芸大受験をしてて、京都市立芸術大学を目指していました。1浪しているときに「そこまで頑張って行く必要あるのかな」と疑問を持ったりして。当時の高校の先生には「絵描きは60歳でも新人と呼ばれる世界なんだから焦らなくていいんじゃない?」と言われたことも大きかったですね。そこから、とりあえず生計を立てるためにデザインの勉強をして、デザイン事務所に就職しました。新聞広告の仕事がメインでしたが、ストレスも溜まったりして割とすぐに退職しました。ラガブーリン、ロックでください。

—いまさらですけど紘平さんって、よく話されますよね。寡黙な方とよく思われるのでは?

川口 思われるんですよね、寡黙でクールなんじゃないか、とか。でも、個展で会場に在廊した日はお客さんにおもろいこと言おう言おう思っていますね。 ー大阪人らしいですね。

川口 お酒飲んだら特に喋りますね。だから、昼間はあんまり喋らないですよ、前の晩のお酒も残っていたりして。これだけ喋るようになったのはバーに行くようになってからですよ、知らない人と隣になったりして、お喋りして、そんなんの繰り返しですよ。

—デザイナー志向ではなくて、やはり画家になりたかったということで。それは小さいときから?

川口 幼稚園の時から画家になると思ってましたね。 資格やテストもないですし。今ほど仕事として絵を描いていないときでも、家でイーゼルを立ててキャンバスを置いて、特に何を描くというわけではないのですが。 そういう空気感に自分が酔っていたところもありました。

—紘平さんがパリの街並みを見て「描きたくてたまらなくなった」という衝動…芸術家はそういう衝動を持たれている様な気がします。音楽家、彫刻家、陶芸家、…楽譜を書かずにはいられない、彫らずにはいられない、手を動かさずにはいられない。そのような内面から湧き出る感覚というのは特別な才能なのでしょうか。

川口 誰しも持っている感覚なんだろうとは思います。それはある種の欲望なんですよね。「何かしたくてむずむずする」っていうのが。だから、ある意味そういう(芸術)活動を続けている人は「子ども」なんだと思うんですよね。欲望に忠実な。描きたくてたまらへん、でも色んなことあるから出来へん、っていうのが大人になったらわかるじゃないですか。やりたいことをやるための環境づくりは大人になっているのかもしれないですけど。自分の中にある、根本にある…欲望を吐き出したいというのは「子ども」の延長なんちゃうかな。 ラガブーリン、おかわりください。段々こういう考えに固まってきたというのはあります。若いときは、画家って人とは違う特別なこだわりがあらないかんやろか、とか。でも、そんなプライドは自分にとってはふさわしくないな、と思うようになってきて。

—個性を求めて、没個性になるというような。

川口 そうそう。人が感動するような絵を描こうと思ったら、人のこと知らなあかんし、人とちゃんと喋るということが出来ないと…感動させるということは出来ない、と。百貨店や画廊での個展となると、みなさん緊張して来られたり質問されるんですね。そんなときは、描いている時に演歌や英会話が流れてしまうことを話したりして。 でも気軽な話をしても、来られた方はやっぱり目に見えてるものに「すごい」と思ってもらっていて、そこに現実があるわけやから、蔑ずんでは見られていないですよね。そういう、日頃の背景も交えたりすることで、心の紐がほどけたら…もっと純粋に絵を見れるんとちゃうんかな

(売約済)Cafe Chappe(アクリル・キャンバス/2015年 95㎝×95㎝)

[略歴]
川口 紘平(かわぐち こうへい)
1979 大阪摂津生まれ
2000 大阪デザイナー専門学校卒業
2002 個展・パステルハウスM/大阪・天神橋
2004 欧美国際公募キューバ美術賞展・優秀賞、個展・パステルハウスM/大阪・天神橋
2006 欧美国際公募フランス美術賞展・入選
2007 HERATLAND KARUIZAWA DRAWING BIENNALE・入選
2008 個展・Night Market 2F/大阪・福島
2009 個展・Casa La Pavoni/大阪・北新地 個展・炭味家/大阪・福島
2010 個展・Green Art Gallery/兵庫・尼崎、 個展・長崎浜屋百貨店/長崎・浜町
2012 個展・大丸心斎橋店 特選ギャラリー、個展・長崎浜屋百貨店/長崎・浜町
2013 個展・仙台三越 アートギャラリー/仙台、IFA展(IFA国際美術協会) 招待出品/大阪市立美術館
2014 個展・心斎橋大丸 美術画廊 / 大阪、 IFA展2014(IFA国際美術協会)/ 招待出品/大阪市立美術館
2015 個展・仙台三越 アートギャラリー/仙台、個展・東武百貨店 池袋店 / 東京、IFA展2015(IFA国際美術協会) / 招待出品/大阪市立美術館 個展・BAR 㐂坐吽 1F/大阪・福島
2016 個展・東武百貨店 池袋店 / 東京
2017 個展・岡山高島屋 / 岡山、 個展・さいか屋藤沢店 / 神奈川、個展・米子高島屋 / 鳥取
2018 個展・Casa La Pavoni / 大阪・北新地