原田敬子 × 川岸富士男

川岸富士男さんのヒロ画廊での初展示に際し、作曲家・原田敬子さんをナビゲーターに迎え、東京都文京区にある川岸さんのご自宅と小石川植物園でお話しをうかがいました。

—川岸さんと原田さんは初の対面です。

川岸 今回、現代音楽を作曲されている原田さんとお会い出来ることを楽しみにしていたのですが、ちょうど最近、小説家の堀江敏幸さんの音楽エッセイ『音の糸』(小学館・二〇一七)を読んでいました。今回のインタビューで、何か語ろうと思ったときに、何も語らないのが一番いいのかな……と思ってはいたんですが、この本の「むずかしさの土台」という章に出会ったときにまさしく小さいときから「それ以外はないな」と思っていた考えが込められていて、それが、音楽評論家の吉田秀和さんが堀江さんに独白した次のような文章です。「モーツァルトの父親は『息子がむずかしい音楽を描こうとすると、もっとわかりやすく、もっとやさしく、と諭しつづけた。だから、モーツァルトは、もっとたくさんの音を聴いていたはずなのに、無理に削ってああいうふうに仕上げた。ときどきむずかしい音を出します。でもそれは、やさしさを土台にしたむずかしさなんだ。』」。作品では基本的に、メッセージ性の無いものが好きですね。

原田 メッセージ性の無いものが好きですか……。先生からいきなり本質的なフレーズが飛び出てきましたね。ところで、「現代音楽」というジャンルはありません。調が無くてどちらかというとわかりにくい音楽を作っている人たちを「現代音楽の作曲家」と表現する人が多いですが、実は「現代音楽」は、西洋芸術音楽史上の一九四五年以降の時代区分「現代」が、いつのまにか人々の間でジャンルとして使われてしまっているのですね。少なくとも私の場合は「現代音楽」を作っているのではなく、ただただ自分の音楽を作っています。私が受けた教育の背景が西洋芸術音楽なので、その流れの最先端にいるという意味で、皆さんが「現代音楽の作曲家」と便宜上呼んでいるなら良いのですが……。

—川岸さんは堀江敏幸さんの作品を、昔から愛読されているのですか?

川岸 最初からほとんど読んでいますね。本の置き位置、モノの選び方……そういった空気感をはじめ、文章に強い部分がなく読書後の余韻が好きなんですよね。エッセイで見つけたさきほど言葉に沿うと、とにかく理屈がなくて、字を書く、線を引く、色を塗る……そんなシンプルななかで出来る作品が素敵だと思っているんですよ。そういう絵を描きたい。

原田 先生の場合は何か対象物があって、描くのですか?

川岸 (対象物)ではなくてですね、今、原田さんはメモを取るのに字を書いているじゃないですか?字を書くことに上手い下手がなくて、字を書くという行為自体を永遠と続けることが好きなんですよね。そこに何かを求めること自体にほとんど興味がない!音楽もそういうことですよね?

原田 それは私も共感しますね。作曲は、内側から出てくるものがあってこそ、なので。

川岸 絵もそうなのですが、作品をこうすると面白いだろう、とか、こうするとすごいだろ?ということが余計なんですよね。作りたいだけであって。

原田 ねつ造するものではないですからね。

川岸 たとえば「この線を意図的に曲げることで、面白いだろう」と思うのは、その人本来の「作りたい」ではないですよね。既に(見てもらいたい)第三者がいるわけじゃないですか。それが介在しないレベルを続けていくことが……私は好きです。「見てもらえる」とか「見てもらえない」とか、発表の場があるっていうのは、二の次の問題で、ただ作りたいだけ。今回は、ヒロ画廊さんで展示となりましたが、(展示の機会が)無くても描き続けていくだけです。シンプルで、だれにでも「わかって」、何か伝わるものがあるといいな、とはいつも思っていますが……。

原田 「わかる」ということは、自分の過去の繋がっているものに触れる、ということですか?

川岸 私にとって「わかる」ということは、誰しもが人として持っていたいレベルのことですね。挨拶をする、名前を言える、あるいは名前を書ける。それ以上のことは、それぞれの環境によって違うかもしれないけれど、ありがとうやこんにちは、おはようございます、ぐらいは皆さん身につけられますよね?そのレベルを平らに持っている人が好きですね。それを永遠と続けられる人になりたいですね。それが先ほどお話ししたことや、堀江さんのエッセイで述べられていた「難しいことをしない」という考えに繋がります。「書/描く」という行為だけで十分で、ただ淡々と続けることを一番に考えています。それを集約したのが、この手描きの『翠花』。「自分が好きなこと」だけを羅列して、全部の「好き」を集めました。これを二十五歳から三十五歳の十年間で作りあげたものを、『銀花』(文化出版局より一九七十年四月に創刊。性別、年齢にこだわることなく、「心豊かな暮らし」をコンセプトに日本の美意識を追求。年四回発行。二〇一〇年の一六一号をもって休刊)に載せてもらいました。

原田 この『翠花』の文章も全て先生の書/描かれた字なのですか?

川岸 そうです。「字を書/描くこと自体」が好きなんですよね。頭の中が空っぽになって。その時間と空間が心地よくて……自分にとって理想的なポジションでした。作品を作るというよりも、(自分自身が)「無」で描き続けることが自分にとってふさわしいと、二十五歳のときに再認識しました。

—無心の状態で描かれるのが心地よかったわけですね。

川岸 作ったものをどのようにしよう、というのはなかったですね。ただ、今まで何も知ろうとしなかった人間が世の中に触れて、ものを知ると美しいことが沢山あることに気づき始めたということです。美に向かっていくことが、自分の資質に合っているということを。当時、美術雑誌で言えば『芸術新潮』や『太陽』もありましたが、自分にとって一番身近であった『銀花』のような形態を取って、一年や十年というスパンでは無理だけど、百歳までのスパンで自分自身の居心地の良さを表現していけば、自分が考えてきた人生にぴったりだろうな、ということを二十五歳の時点で漠然と捉え始めてはいました。『翠花』の創刊号で言えば、中身の質もまだまだ稚拙でしたし、出来ることをしている状態で、自分にとってどういうレベルが居心地が良いか、ということを探していましたね。

原田 『翠花』自体が作品ということなのですか?

川岸 そうですね。『翠花』のなかで「民藝」を特集するなら、少々無理をしても出来る限りの書籍を買い込んで、自分なりに把握した上で特集が成り立つ絵が頭に浮かび上がるまでは読み込んでいました。染色なら染色、焼き物なら焼き物……読み込んだ上でイメージを作り上げて楽しんでいましたね。当時は会社員でしたので、誰かに見せるつもりはありませんでしたし、見せる相手もいませんでした。

—大学卒業後は会社勤めをされています。

川岸 デザイン事務所に二年間勤めました。でも才能が無くて(笑)。

原田 それは、ビジネスマンとしての才能、という意味ですか?

川岸 「働く」ということがわからなかったんですよね。右に貼るべきものを左に貼ってしまったり……そこに面白さを感じられないわけですよ。

原田 ビジネスの世界では、人に評価されたりモノを買ってもらうことで喜ばれる方もいらっしゃいます。先生はそのタイプではなかったということですね。

川岸 そういう感性は欠落していたのだと思います。写植ひとつにしても「なんでこの書体を、この場所に置くんだろう?」といちいち引っかかってしまうんですね。

原田 そうすると、全てに引っかかりが生まれてしまいますよね。

川岸 その通りです。「働く」ということが本当にわからなくて……。ただ入社して良いこともありました。当時デザイン事務所では、得意先に「こういうデザインになりますよ」というダミーを作って事前に持って行くわけですね。そのダミーのカンプ(※制作意図を正確に知らせるため、仕上がりに近く描かれた絵や図)の美しさに惹かれました。ポスターなどの完成品は好きじゃないのですが、完成に至るまでに自分たちが絵を描き、手書きの文字を書くその行為……そこに自分が求める美があることがわかりました。今思うとその二年間はその後とても役に立ちました。

原田 絵や文章が詰まった『翠花』には先生の哲学が詰まっているわけですね。

川岸 そうですね。哲学と言えば、小学校の頃から全文書き取りが好きでこの上なく幸せでした。全文書き取りの「意味を求めない」ところに魅力を感じますね。とにかく好きでした。

—確かに全文書き取りの意味には疑問符が付きます。

原田 でも、昔の作曲家たちは全曲書き写しで勉強していた時代もありました。

川岸 それはどういう意味が?

原田 たとえば、ハイドンはJ・S・バッハの息子の楽譜を書き写して勉強していたそうです。コピー機の無い時代ですから「半日だけ貸して」等と言って、血眼になって写していたのではと想像します。録音が無い時代ですから、写しながら音を想像し、写すときの手作業の感覚で、作曲者の身体感覚を想像していたのではと思います。川岸先生は実際に植物を見て描いたり写したりするのですか?

川岸 私は絵の題材は全て本物を見て、スケッチをしてから描きますね。ただ、ほとんどは小さいときから見てきたショットが頭の中に曖昧な点としてストックされていますね。ですから、絵の九十九%のイメージは描く前から既に出来上がっています。「こういう構図で絵を描きたい」という思いが出来上がっていて、現物は改めて確認として見ますね。そこに無理矢理に現物を当てはめるのではなく、普段曖昧に点で常備しておいた記憶の全ての要素が一瞬にして集まって、そこに「今」を当てはめるようには気をつけています。

—小さいときから見てきたショットという点で、出身地である群馬時代の風景が多いのでしょうか。

川岸 原風景はすでに群馬時代に出来上がっているように思います。小学校に上がる六歳まで祖母とほとんど二十四時間ともに過ごしていました。けれども、祖母との間に会話らしい会話が無かったんですよね。せいぜい「お昼ごはんにするか」「暗くなったので寝るか」とか、そういう単純な類いの呼びかけはありましたが……。いま思えば、祖母が私に知識を与えることなく、自由な時間だけを持たせてくれた真っ白な時代が、(今の創作につながる)すべてだったと思うんですよね。だから、祖母と歩いた道の風景は鮮明に覚えているんですよね。駅まで歩いていく畦道、ここの家には竹が生えていてタケノコがあって、この家の角を曲がると昼顔が咲いていて、裏山の杉の下にスミレがあって、引っ張っるとフカッっと抜ける根の音、土の柔らかさ……そういうのを今でも覚えていて。知識では無く、触感を知っていて描くのと、目の前のものを上手に描くことは違うと思うんですよね。

原田 感覚の記憶ですね。

川岸 そういう所が自分の大切な部分だと思います。オダマキがどの季節にどのような場所でどのような状態で咲くかを知っているかと、オダマキそのものを上手に描けるか、は違いますからね。

—Google 社のストリートビューといったウェブサービスの普及により、その場に行かなくても「現場」を見ることが現代では可能になりました。

川岸 それはもう、私にとって見た瞬間に目より正しすぎるんですよね。肉眼は対象を正確に把握できず狂っているからおもしろいし美しいわけですよ。その狂いの中にどこまでも個人的に体感した時間や空気感をどれだけ含ませることが出来るかが創作の楽しみであり喜びのように思っているので……。

—川岸さんの作品は一見すると「植物画」や「江戸文化」な雰囲気も醸し出されてはいますが、今回のインタビューを通して、今の作風は過去の体験や内面から湧き続けたものの集積であることがわかってきました。

川岸 知識がある、ないではなく、人として人に伝わるものが描き続けられたらいいですね。理屈が無く、絵になるかどうかですね。自分が背伸びせずに無理なく出来て、誰の為でもなくて……ただただ自分の作ったものが全部並ぶ「作品」を作り続けたいんですよね。

[略歴]
川岸 富士男(かわぎし ふじお)
1952 群馬県に生まれる
1974 多摩美術大学卒業
1977 手描き本「翠花」の制作開始
1989 季刊「銀花」(文化出版局刊)に「翠花」全十冊が紹介される。初個展開催
1991 季刊「銀花」(文化出版局刊)に椿絵八十八種特集記事掲載。二度目の個展開催
1992 会社を退職し、画業に専念 都内ギャラリーを中心に各地で個展開催
2003 著書「植物画プロの裏ワザ」(講談社刊)
2006 著書「絵てがみ版 植物画プロの裏ワザ」(講談社刊)
2009 季刊「SORA」(ウェザーニューズ刊)に巻頭画帖(画・文)2014年まで掲載

原田敬子(はらだ けいこ/作曲家)「演奏家の演奏に際する内的状況」に着目し、音楽的身振り、時間構造、音楽的テンションにおける独自の音楽語法を追求。国内外の主要な音楽祭や演奏団体、ソリストの指名により委嘱され、演劇・映画・ダンスほか異分野との創造活動も活発。日本音楽コンクール第1位、安田賞、Eナカミチ賞、山口県知事賞、芥川作曲賞、中島健蔵音楽賞、尾高賞ほかを受賞。’15年サントリー芸術財団主催「作曲家の個展」ほか個展は国内外で招聘を受ける。3枚目の自作品集CD「F.フラグメンツ」( Wergo社、独)は、レコード芸術日本アカデミー賞にノミネート。’17年自作品集「ミッドストリーム」(Wergo)発刊。近年発案した新企画「伝統の身体・創造の呼吸」は、日本の地域で育まれてきた音表象の源泉を探り、その継承の現在を新作と共に伝える。活動は国際交流基金、日米芸術プログラム(ACC)、日本カナダ芸術基金、日独150周年記念事業、ジーメンス音楽財団、プラド美術館、静岡県舞台芸術センター、朝日新聞文化財団、野村国際文化財団、東京都歴史文化財団ほかにより支援されている。現在 東京音楽大学 准教授、桐朋学園大学、静岡音楽館で作曲を教えている。www.tokyo-concerts.co.jp

インタビュー・撮影・編集 廣畑貴之