木の表現展 -赤松功・小山亨・杉田修一・橋本康彦-


2018年7月6日[金]ー 7月15日[日]11:00am -6:00pm

赤松功
1949 愛媛県生まれ 
1972 武蔵野美術大学別科実技専修科油絵卒業
2010 個展 現HEIGHTS・ Gallery DEN 
2012 CAF・N展(埼玉近代美術館)、波動展(福島県)
2013 中之条ビエンナーレ 
2014 国際野外の表現展(入間市AMIGO! )、個展(AMIGO! )

小山亨
1986 長野県にて木工の基礎を学ぶ
1989 California College of the Redwood ジェームズ・クレノフ の元で学ぶ
1991 大阪インテリア 末包茂樹一級建築士事務所にて活動
1996 河内長野市にて木工房K Factory開設
1999 千早赤阪村に工房を移転

杉田修一
1953 倉敷にて生まれる
1975 武蔵野美術大学造形学部油絵学科卒業
1987 倉敷に帰郷 自宅にて絵画教室を開設
1994 第11回ハンズ大賞入選
1997 年賀状、岡山県内版に水彩画「岡山城」が採用される
1999 ふるさと切手の原画に採用される

橋本康彦
1954 福島県いわき市に生まれる
1979 澤田政廣 に師事 高村光雲一門となる
1990 メリーランド美術大学客員芸術家(国際交流基金人物交流)、不動明王立像建立(ベクトン・ディッキンソン本社設置)(~1992年)
1999 阪急百貨店梅田本店個展(2001年、2003年開催)
2017 ヒロ画廊(和歌山)個展

綿引明浩

—作家・綿引明浩さんのヒロ画廊での個展に際し、埼玉県吉川市にある綿引さんのアトリエと、同県越谷市にあるギャラリー恵風で開催されたワークショップを訪れました。

綿引 今回の展覧会はクリアグラフ技法の作品が中心になります。近年の大きなテーマが「自然と人の調和」で、里山風の舞台に大きな一コマ漫画が広がるような、大きな世界を表現しています。

—その前は、「バベルの塔」「ネーデルランドのことわざ」や歌川国芳の浮世絵といった、古今東西の名画の中を「キャスト」と呼ばれる登場人物たちが旅する「イリュージョン」のシリーズでした。(1階が仕事場のアトリエで、2階が生活スペースのご自宅の中は)シンプルで余計なものは飾られていないですね。インスピレーションの源泉になる作品や資料を側に置く作家さんもなかにはいらっしゃいます。

綿引 私は置かないですね。結婚祝いに友だちが作ってくれた白いカラスの彫刻ぐらいです。

—余計なものを置くと気が散りますか?

綿引 気が散るというより、妻が何も置かない生活を演出してくれているのが大きいです。インスピレーションという点では、基本的に30何年間、絵の題材や描くテーマは何ひとつ変わっていないですね。描き方や展開の仕方も変わっていないです。手法だけは変わり続けていますが、版画やって、絵をやって、立体やったり、ガラスとコラボしたり、今はアニメーションを始めましたし。「メディア」を変えているだけですね。自分にとって、メディアは「おもちゃ」みたいなものなんですよね。新たな手法を取り入れて、その新鮮さを楽しむ感じで。キャラクターの性格や動き……子どものなかから持っているイメージがメディアを変遷しつつも、動いているだけですね。

—観賞される方にとって、綿引さんの作品の見方、楽しみ方というものはあるのでしょうか。

綿引 (作品に関しては)自分自身が遊んでい雰囲気を、観る方には感じてもらえれば、楽しさはより伝わるのかなと思っています。ただ、日本の職人的な価値観が尊ばれる社会だと「遊んでいると真面目にやっていない」と思われるわけですよね。逆に「時間をかけた」「苦労しました」という思ってもないことを言動で示す必要があったりね。でも、自分としては、楽に描いている方が自然なので、構えて気を引き締めてアトリエに降りて「さぁ、仕事しよう」とやるよりは、生活スペースの2階でも気が向いたら仕事をするか、という具合です。ドローイングの作品ですと、テレビで映画を観ながら描いていますね。移動中の電車内でもスケッチブックに絵を描いたりしています。

—生活と制作のスイッチの切り替えが要らないということでしょうか。そもそも、スイッチ自体が無い?

綿引 無いのかな。たとえば、車の免許は持っていないですね。というのも、車の運転をしてしまうと、アイデアや考え事で気が散って事故を起こすかもしれないですからね(笑)。

—綿引さんは、全国展示リトルクリスマス「小さな版画展」においても、ヒロ画廊では予約が集中する作家のお一人です。

綿引 版画は普段から、完璧主義に陥らないようにしています。そうなると、必ず転んでしまいますね。よからぬ方向に行くというか……なので、毎回の版画制作では60点を目指しています。次の作品では、その60点をに70点にしていく作業を心がけています。そうすると、必ず洗練されていくんですよ。というのも、長年の作家活動で、洗練されていくさまを自分自身で客観的に観ているので、100%は初めから求めていません。版画は1枚の版から複数枚の作品が仕上がる技法と捉えられますよね?けど、私としては作品を反復出来る技法とも考えています。繰り返繰り返しし作って洗練させていくことが大事ですね。

—綿引さんは、全国で展示活動を展開されていますが、展示会を通じて都会と地方の違いは感じられていますか。

綿引 経済的・精神的な余裕の違いはそれぞれ感じます。都会に住まわれる方は、経済的に余裕があっても時間的な余裕が妙にないというのかな。アートは、たしなみや趣のある場所と時間でより活きるわけですが……都会に住まわれている人はその余裕が減っている様な気がしています。語弊があるかもしれませんが、いわゆる「地方」に住んでいる人々の方が、ゆったりとした時間の持ち方をされています。地方の場合だと、積み重なった歴史と地域に沿った文化や風土があって、その上に限られた画廊やギャラリースペースに人と情報が集約していきます。けど、東京はそうではないので方向性が定まらないのでは、と感じています。そういった人々の傾向に沿うように、東京のギャラリーは海外のアートフェアに関心が向いています。自分の展示会の成果としては、広島、大分、ヒロ画廊もそうですし、地方の街で手応えを感じています。

—地域の話しですが、ご自身の生まれは茨城県水戸市、大学は東京、今のお住まいは埼玉、それぞれ居着いた場所への愛着というものはありますか。

綿引 地元の茨城では2年に1回の展示会もしていますし、両親も健在ですので多少の愛着はあります。でも、男三兄弟の末っ子というのもあり、特段「地元に戻ろう」という気持ちはないですね。かといって、東京に住みたいか、ということはないです。もっと年を重ねたら温泉のあるところに住みたいですね(笑)。

—(笑)。

綿引 ヒロ(店主・廣畑政也)さんは、たまに農業もしつつ画商をしているわけでしょう?それは、とてもかっこいいことだと思います。

—かっこいい?

綿引 そうですよ、絶対。やっぱりは、農業は日本人の魂なんだと思うようになって。というのも、自分が住んでいる埼玉県吉川市だと、お勤めされているご近所の方は、田畑を借りてまで土日に農業をこなされます。単純に稲や種を自分で植えれば、その成長が楽しみになるし収穫には喜びも生まれる。それが精神衛生上、とても良いみたいです。自分の場合だと、農作業とまではいかないけど、庭では薪を割って、家に暖炉と煙突があって暖を取れたら……いずれそういう生活が出来れば理想だなと思えるようになりました。20代の頃は、そんな畑や暖炉なんて……って感じだったんだけど、そういう風に人間は「還る」のだなと、最近は思います。

—還る?

綿引 そうそう。面倒なことを削ぎ落として、一見「合理的」に生きてきた人は、次第に「非合理的」なことに魅力を感じて、人生の帳尻を合わせるというのかな。でも、その方が良いですよね。

—その人生を作家活動に費やされている綿引さんですが、お客さんや観られる方々との関係性を普段からどのように捉えていますか。

綿引 作家活動を長いこと続けていると、ギャラリーにずーっと見に来るだけの方も中にはいらっしゃいます。そんな関係が10年ぐらい続いて、やっと1万円位の版画を買ってくれて、その後すぐに1点ものの作品を買ってもらって「お客さん」になってくださる方もいます。当然、毎回買って下さるという方はほとんどいないわけです。ほかには、学生のときに私の絵を見ていてくれて、その時はまだ買えなかったけど、稼ぐようになられてゆとりが出来て「買います」という方もいらっしゃいます。

—そういうお付き合いが出来るというのは、綿引さんの根っこにメンタルのゆとりがあるからでしょうか。というのも、社会生活にはお金と数字が付いて回ります。売上や入場者数などこなすべきノルマ、作家や展示会自体に「ブランド」が出来て、審美とはかけ離れた価値が先行してしまうケースも往々にしてあります。

綿引 自分の場合は、ゆとりというのかな……ただ「(観る人が)自分の絵をどうやって楽しんでくれるだろう?」というのがあって。はじめの繰り返しになりますが、自分は「こう観てください」という指南はしないですしね。あとは、その方の人生の節目、就職・結婚・新居といったイベントに自分の絵が収まってくれるのは本当にうれしいですね。そのように、世の中に美術を愛好して下さる方々というのは、少ないながらも確実にいるので、ビジネスとして成立すればそれはそれでいいですし、自分の一番の根っこには、(アートに)たくさん出会って、おもしろがってくれたらいいや、というのがありますね。

—最後に、綿引さんの作品のなかでは「キャスト」と呼ばれる登場人物たちが思い想いに作品内を駆け巡ります。観る人にとっての「ストーリー」の必要性、物語の役割は普段からどのように考えていますか。

綿引 受け手がどう感じるか、ということですね。私の場合は、自分が考えることは強要しないし、必要以上にストーリーは考えていますが、それを文章にして本などにすることはないし、自分の制作のテンションを上げるための道具としての「ストーリー」でもあるわけです。はじめに話した「おもちゃとしてのメディア」と同じ考え方ですね。お客さんに当然質問されれば答えますが、必要以上に言う必要もないと思っています。あと、長年全国で展示の数はこなしてきましたが、ヒロ画廊では、特別な空間と時間が流れています。確かにアクセスの良さやかっこいいな空間も大事かもしれないですが、画廊にはオーナーの人柄に沿った方々が集まりますよね。私としては自分の作品をヒロさんのイメージの上で解釈して、お客さんに伝えてくださっても問題ないです。最終的には、自分の魅力を感じてもらえる、自分にかかわる人を信じていますから。

Bulbul~夜空の丘~ 39 x 51.5 cm クリアグラフ

[略歴]
綿引 明浩(わたびき あきひろ)

1984  東京藝術大学美術学部首席卒業 買上賞
1984  第2回西武美術館版画大賞展 優秀賞
1986  東京藝術大学大学院修了
1987  現代の版画 松涛美術館
1990  アートは楽しい ハラミュージアムアーク
1993  今日の水戸の美術 茨城県立美術館
1999  リュブリアナ版画ビエンナーレ
2002-3 文化庁芸術家海外派遣 スペイン
2004  西方見聞録 渋谷東急文化村ギャラリー
2005  DOMANI 損保ジャパン美術館
2006  空想図鑑 船橋アンデルセン公園美術館
2008  台北アートフェア
2011  KIAF 韓国国際アートフェア
2013  新島国際ガラスアートフェアー
2014  釜山アートショウ
2015  さかさまの絵画 常陽資料館

<作品所蔵>
東京藝術大学資料館
原美術館
東京国立近代美術館
茨城近代美術館
水戸博物館
カナダ アルバータ州立大学
新島ガラスアートミュージアム

林孝彦

—林孝彦さんのアトリエがある埼玉県日高市に来ました。アトリエ最寄りの駅名ですが、高麗と書いて「こま」と読むのですね。

林 奈良時代に大和朝廷が朝鮮半島の高句麗から日本に逃げてきた王族たちのために高麗郡をここに作ったようです。数年前には、建郡1300年記念の事業もありました。私は今の場所に住んで18年、それまでは同じ市内の別の場所に10年住んでいました。

—今回は、個展タイトルに「the sound of lines(ザ・サウンド・オブ・ラインズ)」と名付けられています。

林 以前は「風」をテーマにしたタイトルを付けていました。今読んでいる本の影響もあって、少し哲学的な話題になりますが……今の時代ですと「ライン」という言葉は、スマートフォンのアプリケーション名にもなって隆盛していますが、「つながり」という意味合いが強いです。ものにオリジナリティがあるということでよりも、つながりがあることによって生命が吹き込まれる、そういう時代にあるので「風」という言葉で作品発表するよりも、わかりやすいのではないかと思ってこの個展名にしました。今年の東京での個展も「line(ライン)」という言葉が入る予定です。

—デバイスやテクノロジーとの距離の取り方で気をつけていることはありますか。

林 作品制作後は、次の日にはウェブ上にアップロードしています。アトリエにある全ての作品は未発表作品も含めて画質は落としていますが公開しています。「芸術だから」「オリジナルだから」と周囲が尊敬して、それに美術家たちが安住していた時代もありましたが、今は色々なものとの垣根が無くなってきて、美術も数あるエンタメの一つにすぎないとう風潮にあります。ですので、きちっとした画集があって、額に入ってないといけない、個展は新作でないといけない、既成の在り方にこだわりすぎてしまうと、誰ともつながらなくなってしまいます。あまりに拘泥するより、タンブラー(https://www.tumblr.com/)などのSNSで発信して、素材であれ、まずつながりの始まりは何かにレイアウトされることで構わないと思っています。到底そのようなかかわり方だけで飯を食うレベルには達しませんが、誰かに使われることによって、次第に何かの線につながってきます。

—お若い頃の話題ですが、何人かの作家から、林さんは20代のころ、作品を持って全国の画廊巡りをしていたと聞いています。

林 青春18切符を使って背中には作品背負って、野宿をしながら画廊を巡りました。作家仲間には「林の若い頃のような売り込みや営業は出来ない」なんて言われたりもしましたが、自分としては大学の4年間の学費は出してもらったので、大学院は自分で作った「授業料」を背負って売ってなんとかして学費を捻出する必要がありました。ですので、当時の自分としては、そのときやらないといけないことを、できることを自己責任でもってやっていただけです。その頃からや芸術の特殊性という考えは好きじゃありませんでした。

ー芸術の特殊性が好きではないとは、どういうことでしょうか?

林 あくまでステレオタイプな例えですが、絵を描く人というと、生活がめちゃくちゃでも、パトロン的な養ってくれる人がいて、好きに絵を描いて生きていて、そういうあり方が好きじゃありませんでした。実際、そういう特別を自他ともに語る人たちがおります。ですが、僕らが生まれた民主的な土壌のもと、生まれや育ちじゃなくても絵描きが出来るんだ、という気風が自分の核にはあります。特殊性について、他の仕事は飯を食う為の仕事で、これは芸術だからと区別して制作をするという考えはとりません。芸術活動だからと、特別な予算をもらったり、何かの枠組みに頼ったり……そういった風潮が自分は嫌でした。誰にも頼らないために自立するには、まず今ある場所できっちり仕事をする必要がありました。今ある場所で自立出来ないと、どこでも自立出来ないと思います。自分としては、日本中の美術館に画廊、美術大学が無くなっても、絵描きとしてやっていく気概はあります。

ーそういった自立的・行動的なエピソードも強いのかもしれませんが、作品からは「風」「拡散」そういったイメージが思い浮かびます。

林 絵柄が描けなくなったということです。神様を描こうとすることは、どこかおこがましいことに近いような……。何かを具象的に描くと、自分で勝手にフレームを与えることになってしまいます。そうでない!と願うほど、なにもかもモノでなくなって、次第に風や線がテーマになってきました。顔を描くと「こういう顔が美人で」「気難しくて、変な顔をしているのが今の流行りで」……自分はそういう流行からモチーフを外したい意識があります。

—だから、発散、発生するようなモチーフにつながるということでしょうか。

林 むしろ発生する場面が多いですね。宇宙的であったり、植物的であったり。

—植物的なインスピレーションというのは、ご自宅の菜園と関係は?

林 それは年々かなり強まってきました(笑)。絵を描いているより、草取りをしているときの方が無心で幸せですね。元々、土いじりが好きでした。自分の絵は、対社会的なアピールが強いのですが……草取りはそういう社会性が無くて純粋に幸せです。作品を自分で大事にしておく、これは売りたくない、そういう意識はありません。自分の場合は、作品は自分のためには制作していません。社会に対して、自分の考えを出すための方便として作品があります。絵が介在することによって、意味を成す仕事としているので、作品はアトリエに置きっぱなしにしておくべきものではないです。制作行為は自分のためですが、出来上がったものはそうではないですね。その感覚は、子育てや子どもの存在もそうだと思います。家や近くに置いておくのではなくて、自分がいなくても自立して飛び出ていくものというのかな。作品や子孫も何事も、正当さに差別はありえなくて、今生きているということは、記録があるにしろないにしろ、歴史をたどれば全ての人間はつながると思います。この一族は由緒正しくて、あの一族はそうでなくて、栄えていて没落して、身内には成功者がいて犯罪者がいて、そういった区別も好きじゃないのですが、たどっていけばどこか同じ線で生きてきたから、今生きている私たちがいるのだと思います。そういう部分で私はつながりたいです。

 

D-12.Jun.2018(ペン画・雁皮紙にアクリル顔料絵具/2018年  42 ㎝ × 28 ㎝)

[略歴]
林 孝彦(はやし たかひこ)
1961 岐阜県に生まれる 東京芸術大学大学院にて学ぶ
1986 第54回日本版画協会展・協会賞
1987 第3回西武美術館版画大賞展・優秀賞、東京芸術大学大学院修了
1989 第19回現代日本美術展・東京都美術館賞
1990 現代の版画1990(渋谷区立松濤美術館)
1992 第21回現代日本美術展・ブリヂストン美術館賞
1994 シガ・アニュアル’94版の宇宙(滋賀県立近代美術館)
1997 現代日本美術の動勢・版/写すこと/の試み(富山県立近代美術館)、文化庁買上優秀美術作品披露展(日本芸術院会館)
1999 生の視線/創造の現場(武蔵野美術大学美術資料図書館)
2001 press「版画再考」展(5.28-6.16 文房堂ギャラリー・神田神保町)、個展「I walk 2001」(6.4-6.16 ギャルリー東京ユマニテ・京橋)、第46回CWAJ現代版画展(東京アメリカンクラブ・神谷町)
2010より毎年、全国画廊・有志版画家と協力して、人気版画家のクリスマス限定版画を安価で求めることができるリトルクリスマス展を企画、開催。

筆塚稔尚

3年ぶり2度目の個展に際し、作家の筆塚稔尚さんが埼玉県よりヒロ画廊まで打ち合わせも兼ねてお越し下さいました。(2020年1月18日)
 
ヒロ 今日はようこそお越しくださいました。ただ、道中の筆塚さんに連絡を取ろうと思っても携帯を持っていらっしゃらない。やはり、何かこだわりがあるのでしょうか?
筆塚 外に出掛けたら目先の変化に対応する方が面白いですからね。電話を持っているとどうしても拘束されますし。
 
ヒロ 少し大げさかもしれませんが、生きている中での空気感を得られたいのでしょうか。
 
筆塚 本当に必要であれば、自宅の固定電話の留守電や、パソコンのメールもあるので「つながる」方法はいくらでもあります。年に一度か二度ですね「携帯、今あれば便利だろうな」と思うことは。今日も学文路駅から降りたら公衆電話が無いんですよね、少し不安にはなりましたが、近くにガソリンスタンドがあったので、店主さんに「すみませんが、代金支払いますので電話をお貸しください」と交渉して、ヒロ画廊に電話しました。何も持っていない方がかえって周囲を見渡せて、会話も生まれやすいと思います。
 
ヒロ スマホやインターネット社会になって、電車内の光景も昔と変わりました。筆塚さんの場合、社会の風景の変化が作品に反映されるのではないでしょうか。
 
筆塚 先ほどのような視点で観ているので、何らかの影響はあるでしょうね。
 
ヒロ 共感者は絶対数で言えば少ないでしょうが……100人いたらおひとりが反応してくれたら良いですよね。経験則ですが、ヒロ画廊以外の街中で展示会をしたとき、足を止めて会場に入ってくださる人は100人に1人、実際買って下さるとなると、来場された30人のうち1人だと感じています。ヒロ画廊が続いているのは、画廊とお客さん間でのストレスを減らして溜めないようにしているからだと思っています。
 
筆塚 共感を得るという点では、作家としては、自分の作品を「面白い」と感じてもらう人や場所を探す努力が必要です。それは画廊さんを探すことであったり、画廊の人に僕の作品の魅力を伝えてもらうことであったり。過去の作品と現在の作品も1人の人間が作っているので、僕の中では作品によってコンセプトを変えていますが、根っこの部分は全く変わっていないような気がします。それより、漠然と思っていたことが、はっきりと意識するようになりました。
 
ヒロ 画廊としては、ご紹介する作品や作家で有名・無名にはこだわっていません。ただ、筆塚さんは63歳になられますが、経験や年齢を重ねないと出てこない魅力は確かにあると思います。
 
筆塚 30歳のころは絵で生活は成り立ちませんでしたので色んな仕事を経験して、人の手に作品が渡るようになったのは、バブル経済崩壊後でした。
 
ヒロ  それでも、良い方かもしれませんよね。
 
筆塚 最近は、画廊のオーナーたちが同年代や年下になってきました。若い人たちと仕事をして、接点を持ったり話題に追いついていかないと、という意識も強いです。あと、大学をはじめ、教える現場にもいました。これからの自分に対して戒めを込めて言いますが、自分の芽を潰しているのは自分なんだ、と。色んな所からチャレンジして、これは自分とは違う、これは少し合う……そうやって自分の世界を探し続けないといけない、結局その繰り返しなんだ、と。あとは、自分が死ぬまでに、もう何回か自分の知らない自分と出会いたいです。今日の外出もお正月ぶりです(笑)。家でこつこつ制作している方が、私は性に合っていますね。
経つ影 50 x 70 cm 木版画・2003年
 
[略歴]
筆塚 稔尚(ふでづか としひさ)
1957 香川県生まれ
1981 武蔵野美術大学 造形学部油絵学科卒業
1983 東京芸術大学 大学院 美術専攻科終了
2010年より林孝彦氏とともに「版画の種まき」を目的に「リトルクリスマス展-小さな版画展-」を全国各地の画廊・美術館で企画・開催。毎年、数十名の有志作家と協力し、10年間で約13,000点の版画作品の普及に努める。