森永豊 吹きガラス展

2018年5月3日[水・祝]— 5月13日[日]
11:00am -6:00pm

[略歴]
森永 豊 Yutaka MORINAGA
1961 鹿児島県川内市(現薩摩川内市)生まれ
1994 東京ガラス工芸研究所パートドヴェール科を卒業
1994 北海道立工業試験場野幌分場に於いて研修
1995 広島県福山市「グラスヒュッテ」に於いて舩木倭帆氏に師事
2000 薩摩川内市に築炉

今村由男

長野県飯田市にお住まいの作家・今村由男さんのヒロ画廊での初個展に際し、同県下伊那郡高森町にあるアトリエを訪れました。

―今村さんは、国内での展示活動と並行して、海外でも精力的な作家活動を展開されています。

今村 最近では、アーティスト・イン・レジデンス(※)の仕事で海外には行くことが多いですね。どの国でも滞在期間は大体1ヶ月です。近年ですと、モロッコ、韓国、スペイン、今年は中国。給料などは出ませんが、旅費や宿泊費は出してもらいます。そのほかには、ヨーロッパを中心に国際展に応募するのですが、受賞すると招待を受けたり、個展をしていただくことも多いです。
※招聘された芸術家が、ある土地に滞在し、作品の制作やリサーチ活動を行なうこと。またそれらの活動を支援する制度。

―海外での活動や、3月には展示前にヒロ画廊にお越し下さったり、フットワークの軽い方という印象を持っています。

今村 69歳ですので年齢なりの不安はありますけどね。海外での仕事は一人で行動する場合が多いので、「ここで倒れたらどうしよう……」なんて思いますが(笑)。あとは、お付き合いのあるアメリカ人の画商さんが熱心に海外に連れて行ってくれますね。エジプト、フィンランド、ベルギー、オランダ……。国内ですと、西日本や関西での個展は少ないですが、ヒロ画廊で終わったら、来年は京都で個展があります。あと、電車での移動は好きですので、地方の仕事だと(移動の車内で)お弁当を食べながらビールを飲んでね。ちょっとした幸せな時間ですよ。

―お若い頃から拠点は長野?

今村 20代前半は東京にいました。実は私、美術大学も出ていないくて絵画の技法に関してはほとんど独学なんです。20代の当時は、フランク・ステラ(1936年 – )、ロバート・ライマン(1930- )、ジャクソン・ポロック(1912 – 1956)……アメリカ現代美術の追っかけでしたね。日本の美術界自体がアメリカの傾向に寄る風潮がありますが、自分なりの現代美術を追究して毎日現代美術展や前衛派の国際展に出品していました。でも実際は、若い頃の考えに軸がない状態ですと美術雑誌に載っている情報や作家が「正しい」と信じてしまうじゃないですか。

―雑誌や本、このインタビュー記事もそうですが、出版業や編集のフィルターを通して一見整えられた「情報」には「載っているから『正しい』のでは」という正当性は醸し出されますね。

今村 そういった「情報」に感化されすぎると「これが現代美術なんだ」と錯覚して、自分が追究したい美術なんだと「幻想」を抱いてしまうんですよね。当時は、キャンバスに大きい号の作品ばかり描いては国内外の公募展に出品して、入選と落選を繰り返していました。「これは駄目だ」となって、長野に帰ってきました。絵がなかなか描けない時期もあって……20代は挫折感が強かったですね。その頃に、「美術手帖」という雑誌の版画特集で、のちに師事することになる中林忠良先生(なかばやし・ただよし, 1937 – , 版画家・東京芸術大学名誉教授)の作品に出会いました。

―長野に帰郷されてからの生活というのは?

今村 帰郷してから30代半ばの本格的な作家活動に入るまでは、それだけでは当然生計を立てられませんでしたので、今村由男デザイン室というデザインスタジオの運営がメインの仕事でした。帰郷してアトリエも構えて、スタッフも数人雇ってデザインの仕事をしつつ、作品作りをしては東京の中林先生の研究室に通って指導を受けて、デザイン業と作家活動と二足のわらじの期間が4、5年位続きました。そうこうしていると、東京都港区芝大門にあるトールマンコレクションという日本の現代版画専門のギャラリーから「扱いたい」と電話をいただきました。ただ、「扱いたい」と言ってもらっても、それまでに売った経験がないので自分自身の作品に値段も何もつけてないわけですよ。けれども、トールマンの方々がアトリエに来られて、作品を一通り見て「この作品は、この価格で」と小切手を出しては値段をパパッと書いて渡されて、話しはとんとんと進んで。自分としては「ワォ!」となりましたね(笑)。あれは、今思い出してもかっこよかったですね。

―今村さんに声が掛かったポイントというのは?

今村 未だによくわからないですね。取り扱いのメイン作家が篠田桃紅さんで、トールマンコレクションには海外のお客様が多いので「日本風」な古典的な作品を求められている作家もなかにはいますね。自分としては、30年以上のお付き合いで、作家としてのチャンスを最初に与えてくれたのもトールマンですし、アメリカ中心にアジアやヨーロッパでも売ってもらって、本当にありがたい存在です。

―作風やご自身の語り口など、とてもお若い印象を受けています。

今村 一種の緊張感から来てるのでしょうね。我々作家は、(仕事や生活について)何の保証もないので「明日はどう生きよう」という不安が常にありますから。ただ、一線で仕事をし続けるというのは、緊張感を要求されることですし、それを保ち続けることだと思いますよ。そうでないと、勝ち残っていけないですから。お付き合いのあるトールマンコレクションも「芸術家であるなら、この道だけでやってくれ」と発破をかけるタイプの画商ですね。過酷な世界ですので……若く見られるというのは、何か差し迫ったイメージがあるのでしょうね。

―その緊張感から、変わっていかないといけないという意識が生まれるのでしょうか。

今村 そういった意識自体はないですが、作風自体はよく変わっていますね。さきほどの篠田桃紅さんのように、ひとつのスタイルで続けられるのは幸せなことだと思います。自分のやりたいことと、世間の評価と需要が一致するわけですから。同じことをずっと続けることも素晴らしいですが……ただ、私の場合は自己模倣みたいになって飽きてしまうので、作風は変わりやすいタイプですね。一方で、観る方にとってのニーズについては常に考えています。例えば、ヨーロッパの方にヨーロッパの古城を描いても親しみはあっても新鮮さは薄いわけです。

―確かに、日本人の私たちが国内のお城や古刹の絵を見て、伝統性はあっても真新しさを感じるか、となれば疑問符が付きます。

今村 日本だと、個展で表現したい世界観、リトルクリスマス展で反応のある作風、海外だと、ヨーロッパ、アジア、アメリカ、各国で異なる反応など、それぞれを棲み分ける努力はしています。というのも、自分が純粋に本当にやりたいことが、形となってずっと売れ続けていくことが一番幸せなんでしょうが……現実ではそうならないですからね。私としては作風や表現スタイルはニーズに合わせて変化はしても、基本的な部分は変わらないですね。

―作風の基本的な部分についてですが、フレスコ画や幾何学模様は、海外の現地で得たイメージが強いのでしょうか。

今村 そうですね。一昨年ですと、クロアチアでの受賞式を兼ねて取材旅行にも行って現地のイメージを捉えてはいますね。国際展に出品していると感じますが、私の作品はまだまだ「日本風」ですね。決して意識しているわけではないですが。トールマンが声を掛けたポイントは、もしかしたら私の中に「日本風」があったからかもしれないですね。

―ご自身のなかでの日本風の原点は?

今村 原点は琳派ですね。金箔使いに、日本の伝統美、空間感覚……今やっていることはまるっきり琳派でしょうね。おそらく、20代のときに追究したアメリカ現代美術の裏返しでしょうね、極端な言い方ですが(笑)。現代美術ですと、伝統的な技法や感覚を排除して、頭の中で構築して、言葉にして、視覚芸術からは離れますからね。当時ですと、デュシャンも出てきたりして……その辺りへの反発が私の中であったのだと思います。

―反発の原動力となる、お若い頃の不本意な「タメ」があって、現在の今村さんがある。

今村 当時は無理をしていましたね。「はやり」とされる現代美術に身を置いているものの、いくらやってもラチが明かない。一方で、自分に嘘をついている感覚だけは大きくなっていったわけです。海外や外に出向く反面、じっくりと版に向き合う今のスタイルは若い頃の反動でしょうね。20代は悩みに悩んでいましたが、そういう不本意な時期に中林先生の版画を見てからでしょうか、自分にとっての転機は。「こういう(版画の)世界だったら、自分に嘘を言わなくて作品作りが出来るかな」と思えて。それからですよね、作家としてのスタートは。


The Moon(2019年エッチング/メゾチント/箔/木版 62㎝×94㎝ ed20 2019年中国Guanran国際版画ビエンナーレ 最高栄誉賞受賞作品)

[略歴]
今村 由男(いまむら よしお)
1948 長野県に生まれる。 独学で版画を始め、銅版画家・中林忠良氏に私淑する。
1989 日本版画協会展・準会員賞、ニューヨーク国際ミニアチュールプリントビエンナーレ受賞、
バラトヴァバン国際版画ビエンナーレ・特別賞、日仏現代美術展・佳作賞(90年フランスソワール賞2席、フィガロ賞3席)
1991 アトリエコントルポワン(パリ)に留学し、1版多色刷り銅版画を学ぶ
1995 パシフィックリム国際版画展・ハワイ州教育・芸術財団買上賞(1997、2000年)
1997 文化庁特別派遣在外研修員としてパリ、アトリエコントルポワンに留学
1998 フィンランド国際ミニプリント展・特別賞
2000 カダケスミニプリント展・受賞。翌年審査員を務める。
2008 ニュージーランドパシフィックリム国際版画展・審査員特別賞
2009 ソウル空間国際版画ビエンナーレ・買上賞、スプリット国際グラフィックアートビエンナーレ・特別賞(クロアチア)
2011 CWAJ現代日本版画展・第1回運営委員会賞、モロッコのアートフェスティバルに招聘され滞在制作を行う。
2017 スプリット国際グラフィックアートビエンナーレ・グランプリ(クロアチア)

奥野誠・奥野佳世

作家・奥野誠さんと奥野佳世さんのヒロ画廊での2年ぶりの2人展に際し、和歌山県田辺市龍神村にあるお二人の工房を訪れました。 2018.4.4 wed.

ヒロ(ヒロ画廊 代表 廣畑政也、以下「ヒロ」) 今日、画廊からここに来る車中で奥野さんたちとの出会いを思い出していたのですが、森田順子さんの絵画展によく遊びに来ていただいていましたよね。奥野さんのことは、出会う前からお話はよく聞いていましたよ。「大学時代の同級生で、異様にカレー作りにこだわる男がいて、食べさせてもらうのが楽しみだった」とか(笑)。

誠  そうそう、初めてヒロ画廊に伺ったのは、森田さんと赤松功さんの二人展だったと思います。近況ですと、つい先日、上海での展覧会が決まったんですよ。五年程前に工房に来られた方がいて、中国の方なんですが、四連作の大きい作品のうち一つを買っていただいたんですね。その方が、残りの三つも欲しいということで、一昨年にまた来られたんです。で、その方は上海でデパートのディスプレイなどのプロデューサーの仕事をされているのですが、「この程ギャラリーをオープンしたので、奥野さんの展覧会を開きたい」と春に依頼があったんです。それでこの5月から6月の間に作品を展示することになりました。英語でのメールのやりとりも難しいなぁなんて、うれしい悲鳴もありますね。

ヒロ 奥野さんたちの変化としては、誠さんは和歌山県の名匠(平成28年度)に選ばれましたし、上海での仕事もたのしみな展開ですよね。今でこそ芸術村は全国各地にありますけど、奥野さんたちが運営に携わっていた「龍神国際芸術村」(1983年開村)はその「はしり」になるのでしょうか?

誠  はしりもなにも、その頃は「Uターン」や「Iターン」という言葉自体もまだなかったですし、「村おこし」という言葉もようやく使われ始めた頃で、それぐらい当時としては、斬新なアイデアだったのでしょうね。嶋本昭三(しまもと・しょうぞう,1928-2013,現代美術家,京都教育大学名誉教授など歴任)さんが芸術村の村長として、関西の現代美術の作家中心に活動を始められました。村としても作家の定住を望んでいました。僕たちは開村した翌年に大阪からこちらに来ましたが、定住者はいなかったです。その時点では、まだ根付くところまでいってなかったんですね。

ヒロ 嶋本さんとはいつ頃から交流があったのですか?

佳世 私たちが親しくなったのは、1984年に京都のアートスペース虹で私が個展をしたときに嶋本さんが来られたことがきっかけでした。

誠  嶋本さんの知られた活動のひとつにメールアート(※ ⅰ )がありますが、郵政省の役人さんたちが嶋本さんのオフィスを頻繁に訪れて、世界の郵便事情を聞きに来ていましたよ。彼の功績のひとつは郵便法改正に貢献されている点ですね。あと、1987年の朝日新聞阪神支局襲撃事件で亡くなられた小尻知博記者が、定期的に嶋本さんを取材をされていました。嶋本さんは、それまでは派手な格好をされていたけど、小尻記者が亡くなられた年からスキンヘッドにしていつも白黒の服を着られるようになりましたね。

(※ ⅰ ):郵便手段を通じて表現活動を行う美術の形式。展覧会場で不特定多数の人を相手にするのではなく、特定の人の間で鑑賞してもらおうというもの。

佳世 メールアートの活動もそうですし、芸術村が始まったのも嶋本さんのアクションが大きかったですし、時代や世の中を動かした意味でもアーティストでした。

ヒロ 奥野さんたちの交流や活動を聞くようになって、すごいなと感じるのは、紙漉きの仕事だけにとどまらない、広い表現活動に渡る点ですね。「全国手漉き和紙青年の集い(※ ⅱ )」(2011年・龍神村)を開催されたように、全国に散らばる100名以上の紙漉き職人や紙にかかわる人たちを一堂に呼べることもそうですが。

(※ ⅱ ):全国の手漉和紙に携わる青年男女が、お互いの技術交流と和紙文化の伝承のために1975年に初めて京都に集合し、以後毎年各地を巡回して開催。

誠  いやそれは、集い自体が長年全国で続いていることだから、声を掛けたら来てくれただけですよ(笑)。

ヒロ 奥野さんたちにとっては日常の延長にあることかもしれないけれど、「人を呼ぶ」ことに苦心している行政や地域が多い中で、貴重なことだと思いますよ。

誠  地域に人が来るという点では、そうだと思います。ただ、個人の力だけでは「青年の集い」の開催はとても無理です。宿泊の手配や細かい動線など数え上げたらきりがないですし。田辺市や、龍神村開発公社が、このイベントには協力してくれて、大会の開会式でも田辺市の真砂充敏市長に挨拶してもらいましたし、この工房も市が用意してくれたものですしね。そうやって、僕たちは34年前に龍神村に来たことで、紙漉きを始めて紙というものに向き合う機会に巡り会えたことがなにより大きいですね。「たかが紙」という感覚ってまだ最近ですよね。そもそも紙って貴重品だったじゃないですか。

佳世 江戸時代ですと、カゴを持って町の中を歩いて紙くずを拾って回る屑屋が職業として成り立っていましたからね。一旦作った紙を再利用する文化は江戸期にすでに確立されていました。消費するにしても、古くからリサイクルするのが当然のモノだったわけです。原料の楮(こうぞ)そのものが循環型の植物ですから、毎年刈り取っても次の年も同じように育ちますから、サイクルの中で培われたモノなんですよね。ただ、現代はそのサイクルが偏っていますよね。大量消費のために森林を伐採して結果的に異常気象を引き起こして……。

ヒロ 今の仕事はもっと注目されてもいいですよね。

佳世 いろんなものが詰まっていますからね。

誠  あと、紙漉きを始めた早い段階でわかっていたことですが、後継者をどうするかということは、責任を感じています。芸術の分野に限らず本当の後継者って、形式的に仕事や場所を継ぐのではなくて、「任せられる人」のことだと思うんですよね。僕が紙にかかわる前から、紙そのものの歴史があって、この土地の人たちの生業としての「山路紙」があって、後世の人たちはそれで生かされているわけですよね。そういう経緯の上で、いったん途絶えているものを僕らが再び掘り出して。後継者を育てること、育つ環境を整えることも今の仕事のなかには収まるのだろうけど……なかなかうまくいかない点ではプレッシャーを感じていますね。一方で、僕と佳世は紙漉きを通じて、和紙という素材をまず作って、自分たちの表現活動につなげている。その過程に後継者は要らないですよね。絵描きだって別に後継者は要らないですよね。自分の中で完結すれば良い仕事ですから。

ヒロ お二人の場合、表現方法の原料から用意していることが、作品のオリジナリティに結びついていると私は思っています。現代ですと、キャンバスと絵の具を用意して描くのが便利で一般的になりましたけど、表現方法が画一化してしまって独創性に欠けているというか、それが普通になっていて、物足りなさを感じなくなっていることが「普通」になっているような気がします。テンペラ画やフレスコ画のように、下地から作りあげ、絵の具を練って描き上げるということは、時間と手間がかかる分だけ観る側に迫る何かはありますね。

誠  (フレスコ画が隆盛していた)当時は原料も画家たちが作らないとだめでしたからね。

ヒロ 原始的な作品作りに回帰されていますよね、奥野さんたちは。

佳世 そこを大切にしたい、という意識はありますよね。楮という素材と向き合う仕事ですし、色彩も、草木で染めたり土を混ぜたりしますし。

ヒロ そうなると、他の方々はなかなか行き着けないし、再現出来ないですよね。まさに奥野オリジナルになるわけです。そこに行き着くまでの作業は特別なことじゃなくても、ひとつずつ積み重ねてきたからこそ、特別なことに今なっているのだと、ここ10年は近くで見ていて感じています。

誠  だから、タブローとは違うんですよね。この辺りはまだ自分の中でも言葉に出来ていないのですが、純粋に平面を追求する絵画とは、スタートが異なるという気はしていて。素材が、楮の収穫から始まって、和紙を作って、それに加えて僕と佳世を制作に向ける衝動があって、(衝動は)どこから導かれているかもわからないし、人それぞれ違うものではあるけれど……。なので、画材屋さんで絵の具を買ってきて、キャンバスに向かって「さぁ、描くぞ」という感じではないですね。

佳世 本当に自然な流れなんですよね。頭で考える以上に、心と体が動いた方に向かっていったというか。

誠  紙作りと表現活動、それぞれ一体になったものが自分たちの30年の仕事だったんだと、わかったことは確かですね。

[略歴]
奥野 誠(おくの まこと)
1975 武蔵野美術大学造形学部油絵専攻卒業
1977 大阪にアトリエを構え、関西、東京を中心に作品を発表する
1984 龍神国際芸術村へ移住、その運営に携わる 紙漉きと、 その技法による作品の制作を始め、 紙漉きワークショップ・展覧会を各地で開催
1988 芸術村開村5周年記念展を企画、開催
2006,07和歌山大学紀南サテライト授業「現代社会と紙漉き」開講
2008,09山路紙 紙漉き工房開設
2011 全国手漉和紙青年の集い和歌山大会を龍神で主催
2013 龍神国際芸術村開村30周年記念芸術祭、「Art in 龍神村」開催
2016 和歌山県名匠表彰を受ける
2017 名匠表彰受賞記念展(県民文化会館、和歌山市)、
奥野誠紙の世界展(紀南文化会館、田辺市)、東京都中央区区民講座にて講演

奥野 佳世(おくの かよ)
1975 武蔵野美術大学造形学部油絵専攻卒業
1976~84大阪の公立中学、高等学校にて美術指導
1984 アートスペース虹(京都)にて個展  龍神村に移住、龍神国際芸術村アートセンターにて村おこしの活動を始める 紙漉き、草木染による創作活動を始め現在に至る
1992~ 東京、北海道、和歌山、大阪、三重、兵庫などにて展覧会開催
2012~14草木染和紙薄様の研究と製作(助成 公益法人ポーラ伝統文化振興財団)
2017 東京都中央区区民講座にてワークショップ講師
奥野誠・佳世二人展(みやまかやぶき美術館、南丹市)、二人展(ギャラリー砌、東大阪市)

綿引明浩展

2018年4月20日[金]ー 4月29日[日]11:00am -6:00pm

[略歴] 綿引 明浩(わたびき あきひろ)
1984  東京藝術大学美術学部首席卒業 買上賞
1984  第2回西武美術館版画大賞展 優秀賞
1986  東京藝術大学大学院修了
1987  現代の版画 松涛美術館
1990  アートは楽しい ハラミュージアムアーク
1993  今日の水戸の美術 茨城県立美術館
1999  リュブリアナ版画ビエンナーレ
2002-3 文化庁芸術家海外派遣 スペイン
2004  西方見聞録 渋谷東急文化村ギャラリー
2005  DOMANI 損保ジャパン美術館
2006  空想図鑑 船橋アンデルセン公園美術館
2008  台北アートフェア
2011  KIAF 韓国国際アートフェア
2013  新島国際ガラスアートフェアー
2014  釜山アートショウ
2015  さかさまの絵画 常陽資料館

<作品所蔵>
東京藝術大学資料館
原美術館
東京国立近代美術館
茨城近代美術館
水戸博物館
カナダ アルバータ州立大学
新島ガラスアートミュージアム