竹久夢二展

2020年11月7日[土]— 11月15日[日]11:00am -6:00pm

竹久夢二
[略歴]
1884年(明治17)- 1歳9月16日:岡山県邑久郡本庄村に生まれる。本名は茂次郎。家業は造り酒屋。
1899年(明治32)- 16歳4月:神戸中学校に入学。12月:家事都合により中退。帰郷。
1900年(明治33)- 17歳2月:一家で郷里を離れ福岡へ転居。
1901年(明治34)- 18歳夏:家出して上京。苦学。
1902年(明治35)- 19歳9月:早稲田実業学校、入学。
1905年(明治38)- 22歳3月:早稲田実業学校、卒業。4月:同校専攻科に進む。5月:「中学世界」にコマ絵「筒井筒」が一等入選し、初めて「夢二」と署名する。7月:早稲田実業専攻科を中退。
1907年(明治40)- 24歳1月:岸たまきと結婚。4月:読売新聞入社。時事スケッチを掲載する。
1908年(明治41)- 25歳2月:長男、虹之助生まれる。
1909年(明治42)- 26歳5月:岸たまきと戸籍上離婚。12月:最初の著作「夢二画集  春の巻」刊行。以後、数多くの出版物を刊行する。
1911年(明治44)- 28歳5月:次男、不二彦生まれる。
1912年(大正1)- 29歳11月:京都府立図書館にて「第一回夢二作品展覧会」開催。多くの来場者で話題となる。
1914年(大正3)- 31歳10月:日本橋呉服町に「港屋絵草紙店」開店。笠井彦乃と出会い、後に結ばれる。
1916年(大正5)- 33歳4月:初めて「セノオ楽譜」を装幀する。以後270余のセノオ楽譜の装幀を手掛ける。
1917年(大正6)- 34歳2月:京都清水二年坂に不二彦と転居。夏:彦乃、不二彦と共に金沢市湯涌温泉に旅行。
1918年(大正7)- 35歳4月:京都府立図書館にて「第二回竹久夢二抒情画展覧会」開催。9月:「宵待草」が出版され、全国に流布。11月:東京に戻る。
1919年(大正8)- 36歳「山へよする」「露地の細道」「夢のふるさと」「たそやあんど」など木版挿画本を多数出版。
1920年(大正9)- 37歳1月:彦乃、御茶ノ水順天堂医院にて永眠。(享年  25歳)
1921年(大正10)- 38歳7月:モデルのお葉と渋谷に所帯を持つ。
1923年(大正12)- 40歳9月:関東大震災。これにより恩地孝四郎らと共に企画した「どんたく図案社」は頓挫。「都新聞」に「東京災難画信」の連載を始める。
12月:子供向けの絵本「どんたく絵本」刊行。
1924年(大正13)- 41歳5月:「婦人グラフ」に表紙や口絵の掲載を始める。
夢二の人気にあやかり、飛ぶように売れた。12月:松沢村(現、世田谷区)にアトリエ付新居「少年山荘」完成。お葉と共に転居。
1925年(大正14)- 42歳5月:装幀をした縁で山田順子が現れ、お葉去る。
1930年(昭和5)- 47歳5月:「榛名山美術研究所建設につき」宣言文を夢二が書き、島崎藤村他が賛助の名を連ねる。7月:「中山晋平  作曲全集」刊行。
1931年(昭和6)- 48歳3月:新宿三越にて渡米告別展を開催。
5月:横浜港よりホノルル経由でアメリカへ向かう。6月:サンフランシスコ、着。各地で展示会を開くも売れず。
1932年(昭和7)- 49歳9月:アメリカより渡欧。10月:ハンブルク、 着。欧州各地を転々とする。
1933年(昭和8)- 50歳9月:神戸に帰港。11月:台湾に行くが体調を悪化させ帰国。
1934年(昭和9)- 51歳1月:信州富土見高原療養所に入院。9月1日:「ありがとう」を最後の言葉に永眠。雑司ヶ谷墓地に埋葬。