小川顕三

廣畑 今回、ご紹介させていただきます小川顕三さんですが、御年83歳になられます。信楽焼の陶芸家は、ヒロ画廊では初めてのご紹介です。この道60年のキャリアがおありですが、一日に大体ですけれども、作業されてとなると、どれぐらいの時間になりますでしょうか。

小川 朝の9時から夕方4時まで作業しています。仕事がなにより好きですし、体が資本のうえ、好きでないと続かない仕事でもあります。絶えず工房に入っていますから、寝ていても陶芸のことばかり頭に浮かんできてしまいます。朝の4時に起きて、少し醒めてくると、作りたいモノの形が浮かんできます。息子からは早起きが過ぎるなんて呼ばれていますが……性分としてじっと出来ないたちですね(笑)。

廣畑 そのイメージのまま、工房に入られるのですか?

陶芸家 小川顕三

小川 入る前に、今日と明日の予定を書き記しています。そうすると気持ちよく仕事が出来ますので、大事な作業やね。ただ漠然と1日を過ごして仕事をするんじゃなくて、毎日これはする、明日はこれを、来週は……と、きっちりきっちり進めていくと、私の場合はスムーズに流れていきます。作業途中であっても4時になれば切り上げて帰っています。毎日の作業ですので、長続きせんことには良い仕事にはつながりません。

廣畑 ご自分のペースをとても大切にされているように感じます。そもそもですが、作陶のきっかけというのは?

小川 若い頃に器を作り出したきっかけですが、(北大路)魯山人に魅了されたことでした。地元・信楽のあたたかい土肌と、京都の薄手のきれいな器をミックスした焼き物を作りたかったんです。

廣畑 小川さんの作風は信楽の従来の味わいが色濃い一方で、同じく陶芸家で息子さんの小川記一さんはシンプルで美しい形を追求されています。

小川 時代や世代によって、受け容れられる作風は違いますからね。自分の場合は、器は着物の衣装のようなものと考えています。装飾過剰にならないように……主役は器に盛る料理だったり、生ける花だったりするわけです。作陶スタイルとしては、最初は、ごちゃごちゃしたものを作り出していくんですが、少しずつそぎ落としていって、良い具合の所で、ストップしています。

廣畑 この前寄せていただいた際に分けてもらった酒器ですが、私は普段は下戸なのですが、少しづつ飲みたくなる不思議であたたかい魅力を醸し出されています。実際手に取ってもらって、こういう巣ごもりな世相ですから、ご自宅でじっくり使っていただきたい作品ばかりです。

小川 どんな展覧会になるか、楽しみやね。

ヒロ画廊 代表 廣畑政也

[略歴]
小川 顕三(おがわ けんぞう)
1938 名工小川青峰の息子として信楽に生まれる
1957 京都府立伏見高等学校 「窯業科」卒業
1957 株式会社菱三陶園 入社
1959 京都市立工芸試験所「陶磁科」2年終了
1961 県立信楽職業訓練所「陶磁科」2年終了
1968 「日芸展」通産大臣賞受賞
1972 「日芸展」読売新聞社賞受賞
1979 信楽陶芸展 優秀賞
1980 日本伝統工芸近畿支部展 入選
1981 横浜高島屋 父子展
1993 (有)小川顕三陶房を設立
2007 信楽焼伝統工芸士認定
2014 「小川顕三陶房」甲賀ブランド認定
2015 料理雑誌「四季の味」主催<春の陶器展> 於 日本橋高島屋

緋彩掛分け俎板皿

信楽麦藁手徳利(左) 信楽麦藁手ぐい呑(中) 信楽麦藁手6寸皿(右) 

信楽麦藁手盛鉢

灰カイラギ茶盌

原田敬子 × 川岸富士男

川岸富士男さんのヒロ画廊での初展示に際し、作曲家・原田敬子さんをナビゲーターに迎え、東京都文京区にある川岸さんのご自宅と小石川植物園でお話しをうかがいました。

—川岸さんと原田さんは初の対面です。

川岸 今回、現代音楽を作曲されている原田さんとお会い出来ることを楽しみにしていたのですが、ちょうど最近、小説家の堀江敏幸さんの音楽エッセイ『音の糸』(小学館・二〇一七)を読んでいました。今回のインタビューで、何か語ろうと思ったときに、何も語らないのが一番いいのかな……と思ってはいたんですが、この本の「むずかしさの土台」という章に出会ったときにまさしく小さいときから「それ以外はないな」と思っていた考えが込められていて、それが、音楽評論家の吉田秀和さんが堀江さんに独白した次のような文章です。「モーツァルトの父親は『息子がむずかしい音楽を描こうとすると、もっとわかりやすく、もっとやさしく、と諭しつづけた。だから、モーツァルトは、もっとたくさんの音を聴いていたはずなのに、無理に削ってああいうふうに仕上げた。ときどきむずかしい音を出します。でもそれは、やさしさを土台にしたむずかしさなんだ。』」。作品では基本的に、メッセージ性の無いものが好きですね。

原田 メッセージ性の無いものが好きですか……。先生からいきなり本質的なフレーズが飛び出てきましたね。ところで、「現代音楽」というジャンルはありません。調が無くてどちらかというとわかりにくい音楽を作っている人たちを「現代音楽の作曲家」と表現する人が多いですが、実は「現代音楽」は、西洋芸術音楽史上の一九四五年以降の時代区分「現代」が、いつのまにか人々の間でジャンルとして使われてしまっているのですね。少なくとも私の場合は「現代音楽」を作っているのではなく、ただただ自分の音楽を作っています。私が受けた教育の背景が西洋芸術音楽なので、その流れの最先端にいるという意味で、皆さんが「現代音楽の作曲家」と便宜上呼んでいるなら良いのですが……。

—川岸さんは堀江敏幸さんの作品を、昔から愛読されているのですか?

川岸 最初からほとんど読んでいますね。本の置き位置、モノの選び方……そういった空気感をはじめ、文章に強い部分がなく読書後の余韻が好きなんですよね。エッセイで見つけたさきほど言葉に沿うと、とにかく理屈がなくて、字を書く、線を引く、色を塗る……そんなシンプルななかで出来る作品が素敵だと思っているんですよ。そういう絵を描きたい。

原田 先生の場合は何か対象物があって、描くのですか?

川岸 (対象物)ではなくてですね、今、原田さんはメモを取るのに字を書いているじゃないですか?字を書くことに上手い下手がなくて、字を書くという行為自体を永遠と続けることが好きなんですよね。そこに何かを求めること自体にほとんど興味がない!音楽もそういうことですよね?

原田 それは私も共感しますね。作曲は、内側から出てくるものがあってこそ、なので。

川岸 絵もそうなのですが、作品をこうすると面白いだろう、とか、こうするとすごいだろ?ということが余計なんですよね。作りたいだけであって。

原田 ねつ造するものではないですからね。

川岸 たとえば「この線を意図的に曲げることで、面白いだろう」と思うのは、その人本来の「作りたい」ではないですよね。既に(見てもらいたい)第三者がいるわけじゃないですか。それが介在しないレベルを続けていくことが……私は好きです。「見てもらえる」とか「見てもらえない」とか、発表の場があるっていうのは、二の次の問題で、ただ作りたいだけ。今回は、ヒロ画廊さんで展示となりましたが、(展示の機会が)無くても描き続けていくだけです。シンプルで、だれにでも「わかって」、何か伝わるものがあるといいな、とはいつも思っていますが……。

原田 「わかる」ということは、自分の過去の繋がっているものに触れる、ということですか?

川岸 私にとって「わかる」ということは、誰しもが人として持っていたいレベルのことですね。挨拶をする、名前を言える、あるいは名前を書ける。それ以上のことは、それぞれの環境によって違うかもしれないけれど、ありがとうやこんにちは、おはようございます、ぐらいは皆さん身につけられますよね?そのレベルを平らに持っている人が好きですね。それを永遠と続けられる人になりたいですね。それが先ほどお話ししたことや、堀江さんのエッセイで述べられていた「難しいことをしない」という考えに繋がります。「書/描く」という行為だけで十分で、ただ淡々と続けることを一番に考えています。それを集約したのが、この手描きの『翠花』。「自分が好きなこと」だけを羅列して、全部の「好き」を集めました。これを二十五歳から三十五歳の十年間で作りあげたものを、『銀花』(文化出版局より一九七十年四月に創刊。性別、年齢にこだわることなく、「心豊かな暮らし」をコンセプトに日本の美意識を追求。年四回発行。二〇一〇年の一六一号をもって休刊)に載せてもらいました。

原田 この『翠花』の文章も全て先生の書/描かれた字なのですか?

川岸 そうです。「字を書/描くこと自体」が好きなんですよね。頭の中が空っぽになって。その時間と空間が心地よくて……自分にとって理想的なポジションでした。作品を作るというよりも、(自分自身が)「無」で描き続けることが自分にとってふさわしいと、二十五歳のときに再認識しました。

—無心の状態で描かれるのが心地よかったわけですね。

川岸 作ったものをどのようにしよう、というのはなかったですね。ただ、今まで何も知ろうとしなかった人間が世の中に触れて、ものを知ると美しいことが沢山あることに気づき始めたということです。美に向かっていくことが、自分の資質に合っているということを。当時、美術雑誌で言えば『芸術新潮』や『太陽』もありましたが、自分にとって一番身近であった『銀花』のような形態を取って、一年や十年というスパンでは無理だけど、百歳までのスパンで自分自身の居心地の良さを表現していけば、自分が考えてきた人生にぴったりだろうな、ということを二十五歳の時点で漠然と捉え始めてはいました。『翠花』の創刊号で言えば、中身の質もまだまだ稚拙でしたし、出来ることをしている状態で、自分にとってどういうレベルが居心地が良いか、ということを探していましたね。

原田 『翠花』自体が作品ということなのですか?

川岸 そうですね。『翠花』のなかで「民藝」を特集するなら、少々無理をしても出来る限りの書籍を買い込んで、自分なりに把握した上で特集が成り立つ絵が頭に浮かび上がるまでは読み込んでいました。染色なら染色、焼き物なら焼き物……読み込んだ上でイメージを作り上げて楽しんでいましたね。当時は会社員でしたので、誰かに見せるつもりはありませんでしたし、見せる相手もいませんでした。

—大学卒業後は会社勤めをされています。

川岸 デザイン事務所に二年間勤めました。でも才能が無くて(笑)。

原田 それは、ビジネスマンとしての才能、という意味ですか?

川岸 「働く」ということがわからなかったんですよね。右に貼るべきものを左に貼ってしまったり……そこに面白さを感じられないわけですよ。

原田 ビジネスの世界では、人に評価されたりモノを買ってもらうことで喜ばれる方もいらっしゃいます。先生はそのタイプではなかったということですね。

川岸 そういう感性は欠落していたのだと思います。写植ひとつにしても「なんでこの書体を、この場所に置くんだろう?」といちいち引っかかってしまうんですね。

原田 そうすると、全てに引っかかりが生まれてしまいますよね。

川岸 その通りです。「働く」ということが本当にわからなくて……。ただ入社して良いこともありました。当時デザイン事務所では、得意先に「こういうデザインになりますよ」というダミーを作って事前に持って行くわけですね。そのダミーのカンプ(※制作意図を正確に知らせるため、仕上がりに近く描かれた絵や図)の美しさに惹かれました。ポスターなどの完成品は好きじゃないのですが、完成に至るまでに自分たちが絵を描き、手書きの文字を書くその行為……そこに自分が求める美があることがわかりました。今思うとその二年間はその後とても役に立ちました。

原田 絵や文章が詰まった『翠花』には先生の哲学が詰まっているわけですね。

川岸 そうですね。哲学と言えば、小学校の頃から全文書き取りが好きでこの上なく幸せでした。全文書き取りの「意味を求めない」ところに魅力を感じますね。とにかく好きでした。

—確かに全文書き取りの意味には疑問符が付きます。

原田 でも、昔の作曲家たちは全曲書き写しで勉強していた時代もありました。

川岸 それはどういう意味が?

原田 たとえば、ハイドンはJ・S・バッハの息子の楽譜を書き写して勉強していたそうです。コピー機の無い時代ですから「半日だけ貸して」等と言って、血眼になって写していたのではと想像します。録音が無い時代ですから、写しながら音を想像し、写すときの手作業の感覚で、作曲者の身体感覚を想像していたのではと思います。川岸先生は実際に植物を見て描いたり写したりするのですか?

川岸 私は絵の題材は全て本物を見て、スケッチをしてから描きますね。ただ、ほとんどは小さいときから見てきたショットが頭の中に曖昧な点としてストックされていますね。ですから、絵の九十九%のイメージは描く前から既に出来上がっています。「こういう構図で絵を描きたい」という思いが出来上がっていて、現物は改めて確認として見ますね。そこに無理矢理に現物を当てはめるのではなく、普段曖昧に点で常備しておいた記憶の全ての要素が一瞬にして集まって、そこに「今」を当てはめるようには気をつけています。

—小さいときから見てきたショットという点で、出身地である群馬時代の風景が多いのでしょうか。

川岸 原風景はすでに群馬時代に出来上がっているように思います。小学校に上がる六歳まで祖母とほとんど二十四時間ともに過ごしていました。けれども、祖母との間に会話らしい会話が無かったんですよね。せいぜい「お昼ごはんにするか」「暗くなったので寝るか」とか、そういう単純な類いの呼びかけはありましたが……。いま思えば、祖母が私に知識を与えることなく、自由な時間だけを持たせてくれた真っ白な時代が、(今の創作につながる)すべてだったと思うんですよね。だから、祖母と歩いた道の風景は鮮明に覚えているんですよね。駅まで歩いていく畦道、ここの家には竹が生えていてタケノコがあって、この家の角を曲がると昼顔が咲いていて、裏山の杉の下にスミレがあって、引っ張っるとフカッっと抜ける根の音、土の柔らかさ……そういうのを今でも覚えていて。知識では無く、触感を知っていて描くのと、目の前のものを上手に描くことは違うと思うんですよね。

原田 感覚の記憶ですね。

川岸 そういう所が自分の大切な部分だと思います。オダマキがどの季節にどのような場所でどのような状態で咲くかを知っているかと、オダマキそのものを上手に描けるか、は違いますからね。

—Google 社のストリートビューといったウェブサービスの普及により、その場に行かなくても「現場」を見ることが現代では可能になりました。

川岸 それはもう、私にとって見た瞬間に目より正しすぎるんですよね。肉眼は対象を正確に把握できず狂っているからおもしろいし美しいわけですよ。その狂いの中にどこまでも個人的に体感した時間や空気感をどれだけ含ませることが出来るかが創作の楽しみであり喜びのように思っているので……。

—川岸さんの作品は一見すると「植物画」や「江戸文化」な雰囲気も醸し出されてはいますが、今回のインタビューを通して、今の作風は過去の体験や内面から湧き続けたものの集積であることがわかってきました。

川岸 知識がある、ないではなく、人として人に伝わるものが描き続けられたらいいですね。理屈が無く、絵になるかどうかですね。自分が背伸びせずに無理なく出来て、誰の為でもなくて……ただただ自分の作ったものが全部並ぶ「作品」を作り続けたいんですよね。

[略歴]
川岸 富士男(かわぎし ふじお)
1952 群馬県に生まれる
1974 多摩美術大学卒業
1977 手描き本「翠花」の制作開始
1989 季刊「銀花」(文化出版局刊)に「翠花」全十冊が紹介される。初個展開催
1991 季刊「銀花」(文化出版局刊)に椿絵八十八種特集記事掲載。二度目の個展開催
1992 会社を退職し、画業に専念 都内ギャラリーを中心に各地で個展開催
2003 著書「植物画プロの裏ワザ」(講談社刊)
2006 著書「絵てがみ版 植物画プロの裏ワザ」(講談社刊)
2009 季刊「SORA」(ウェザーニューズ刊)に巻頭画帖(画・文)2014年まで掲載

原田敬子(はらだ けいこ/作曲家)「演奏家の演奏に際する内的状況」に着目し、音楽的身振り、時間構造、音楽的テンションにおける独自の音楽語法を追求。国内外の主要な音楽祭や演奏団体、ソリストの指名により委嘱され、演劇・映画・ダンスほか異分野との創造活動も活発。日本音楽コンクール第1位、安田賞、Eナカミチ賞、山口県知事賞、芥川作曲賞、中島健蔵音楽賞、尾高賞ほかを受賞。’15年サントリー芸術財団主催「作曲家の個展」ほか個展は国内外で招聘を受ける。3枚目の自作品集CD「F.フラグメンツ」( Wergo社、独)は、レコード芸術日本アカデミー賞にノミネート。’17年自作品集「ミッドストリーム」(Wergo)発刊。近年発案した新企画「伝統の身体・創造の呼吸」は、日本の地域で育まれてきた音表象の源泉を探り、その継承の現在を新作と共に伝える。活動は国際交流基金、日米芸術プログラム(ACC)、日本カナダ芸術基金、日独150周年記念事業、ジーメンス音楽財団、プラド美術館、静岡県舞台芸術センター、朝日新聞文化財団、野村国際文化財団、東京都歴史文化財団ほかにより支援されている。現在 東京音楽大学 准教授、桐朋学園大学、静岡音楽館で作曲を教えている。www.tokyo-concerts.co.jp

インタビュー・撮影・編集 廣畑貴之

建築家 島桐子

ヒロ画廊に来られる方々から一番多い質問のひとつ「変わった建物ですね、どういう人が設計したのですか?」。 画廊を設計・建築した建築家の島桐子(しま とうこ)さんを迎えて、店主・廣畑政也と建築当時の様子を振り返りました。

廣畑 もう30年にはなりますよね、お付き合いが始まって、早いなぁ(笑)。島さんとのお付き合いがどういう風に始まったか思い出していたのですが、私が当時勤めていた美術商の会社のセールスで飛び込んだ先が、島さんが当時勤めていた建築事務所でしたね。もちろん飛び込みでしたのでいきなり買っていただけるはずもないので、事務所にかなり通って、そのうちに「ひとつ買おうか」と社長さんに言っていただいて。それがきっかけで、社長さんやスタッフの方も私がかかわった展示会にお出でくださるようになって、次第に島さんとも交流が始まったんですよね。

島 そうでしたね。私が廣畑さんから一番最初に買ったのは、ウィリアム・スコット (イギリス、1913 – 1989)の、おとなしい水色の梨の絵でした。

廣畑 そのときで、おいくつでした?

島 スコットを購入したときは27歳、版画を買ったのは3度目でした。絵画を初めて買ったのは大学生のときです。ジャン・ジャンセン(フランス、1920-2013)の作品を京都の画廊で見て気に入ってしまって。当時で15万円ぐらいだったと思います。学生の分際でずいぶん高い買い物をしたものですね。

廣畑 1980年代後半ですと、ちょうどフランスの現代作家の版画がブームになった頃ですね。

島 2枚目は、アントニオ・タピエス(スペイン、1923-2012)。あれも一目惚れでした。

廣畑 タピエスはミロの後にスペインを背負った画家ですものね。ポール・ギヤマン(フランス、1926-2007)をすすめたことがありましたが、あれは結局買われませんでしたよね。

島 「いいなぁ!」とは言いましたが買いませんでしたね。当時私の頭の中はタピエスでしたから(笑)。廣畑さんと出会ってから、先ほどのスコットのあと、ベルナール・ビュフェ(フランス、1928-1999)、ルフィーノ・タマヨ(メキシコ、1899 – 1991)の他、小さいものを何点かいただきました。

廣畑 ビュフェもその後一番高いときで400万ぐらいの値がついたときもありましたよね。長くこの仕事をしていると、納まるべき人に絵が行くタイミングというのはやはりあるように思いますね。

島 廣畑さんはいいタイミングで絵を紹介してくださいますから(笑)。そういえば、北斎の複製画もいただきましたね。私はアートコレクターではありませんが、自宅の壁のスペースよりは絵の量が多くなってしまいました。ではそろそろ、ヒロ画廊の建物のおはなしをしましょうか。今日は当時の図面を持ってきました。すでに建築の現場ではパソコンがメインツールになりましたが、この当時、私はまだ手書きでした。パソコンに移ったのは2002年頃からです。

廣畑 島さんに依頼する前に、大手のハウスメーカーに一度見積もりを頼みましたが……ビルみたいな設計図になって(笑)。自分としては面白みに欠けて納得出来ませんでした。どうしようかなぁ、という時に相談しましたよね。地形は複雑ですし、予算も限られていましたから。ですから島さんが最初の持って来た曲がった壁の建物の模型はとても新鮮でした。そういえば建てている途中には、通りすがりの人には「カラオケボックスが出来るの?」と言われたこともありました(笑)。

島 そもそもこの場所で画廊というイメージ自体が湧きませんからね……。

廣畑 20年経ちますが、画廊の瀟洒な雰囲気というのは少しも寂れていないと思っています。実際、家を新築される方や建築家志望の若い方も参考にしたいと来られていますからね。建築物自体の新鮮さが経営維持の大きな要因になっているとは、常に思っていますよ。

島 ありがとうございます。でもそれはこの建物が画廊として「在る」からですよ。私は廣畑さんから「画廊」の設計を依頼されました。でも私が提供したのは画廊としての機能を持った「建物」です。もちろん回りくどいアプローチからわざと少し上がってから店内に降りていってそこがあたかも半地下室のように錯覚させる仕掛けや、空が見える高窓、曲面の壁の構成など、ちょっとした非日常な行為であるところの「絵画を買う」場所としての演出はしましたけど。人やモノの動きがあって画廊として使われ続けているからこそ、この「建物」が「画廊」そのものになっているんです。言い換えれば廣畑さんと長年ヒロ画廊を愛してくださっているお客さんたちが、画廊として「生きている建物」にしてくださっているからです。設計した私が言うのもおかしいですが、いい建物に育てて下さっていると思います。竣工した時よりずっといい。……お互い年を取ると丸くなって誉め称え合うようになるんですかね(笑)。

廣畑 それにしても、設計前の段階から工事の完成に至るまで相当なヒヤリングをしてもらいました。その度に自分たちがこれからどういう風に仕事をしていきたいかを確かめられたので、背伸びしないで済む適切なサイズの画廊に仕立ててもらえました。まさにオーダーメイドでした。ところで、それまで、画廊の設計経験はあったのですか?

島 画廊の設計なんて滅多に無い仕事です。もちろん初めてです。また、私が独立して初の仕事でした。自分が直接、設計料をいただくことも初めての経験だったんです。それは照れましたね。自分の仕事に値段をつけるわけですからね。そしてものすごく責任の重い仕事だという事も改めて自覚した事を覚えています。

廣畑 ただやはり話が進んでも、建設中も一筋縄ではいきませんでしたよね。当初、島さんは内側の壁面には木毛板(※もくもうばん-木材を細く削ったものをセメントで固めた板材。最終的には塗装して使用)を塗装せずに使ってはどうか、と提案してくれました。ただ、私としては絵を掛けたときの違和感が頭によぎったので「島さんが好きなタピエスなら似合うだろうけど……」と一旦は却下しました。

島 最終的に柱の表面にワイヤーメッシュを取り付けるというアイデアは、廣畑さんから頂きましたね、確か。

廣畑 結果的に私の考えを採用してもらいましたが、島さんも施工してくださった西谷工務店の西谷さんもかなりの素材を提案してくれましたよね。通常、ギャラリーの壁面となると白い壁が圧倒的に多いので、今のようなツートーンやスリートーンになるのは、私としてはかなりの冒険でした。でも今は、絵画だけでなく陶芸や彫刻展でも違和感なく対応出来ているので、これで良かったですね。この複雑な地形に、これだけすっきりと建てていただいたことに一番感謝しています。

島 結果的に成功しましたが、実は曲面の壁に絵を掛けること自体が禁じ手なんですよね。(ヒロ画廊のケースは)あくまで地形から出てきた発想ですが……。当時いろいろ調べていると、京都府にあるアサヒビール大山崎山荘美術館の安藤忠雄さんが設計した「地中の宝石箱」というスペースにほぼ同じ半径の展示室があると知り、見に行きました。見たところ、絵のサイズが大きくなければ、つまり絵に対してもう少し引きを作れば成立するかな……という確信だけはありました。

廣畑 私もその美術館には行ったことはありますが、そのスペースにはモネの大きな点描画が掛けられていますよね。これから画廊を建てるなかで、島さんと同じで私の感覚としてももう少し引きがあれば、視覚混合(※となりあわせに置かれた二つ以上の色彩が、遠くから見ると混じり合ってひとつの色に見える光学現象)がより引き立つのかな、という直感はありました。あまりに引きがないと、筆のタッチにばかり目が行ってしまいますからね。というのも美術館の場合はメインの目的が作品の保存・収集や展示になりますが、画廊ですと見ていただいた上でコレクションやインテリア、大事な方へのプレゼントなど、来られる方の実生活が延長線上に常にありますから……そのような目線というのは、島さんや西谷さんとディスカッションを重ねた上で私としては最優先事項でした。実生活という点で、お客様によく話すのですが「絵は決して高いものじゃないんですよ」とお伝えしています。今回、このインタビューを掲載するリトルクリスマス展も「版画の種まき」を目的に、全国の作家が有志で始めた企画です。ヒロ画廊は昨年からの参加ですが、普段絵画や版画に興味をあまり示されなかった方も買いやすいということで、お一人で数点買われた方もいらっしゃいました。作家としても、会場となる画廊が北海道から九州までありますから、展示会活動のきっかけや新たな接点作りになるようです。

島 作家も色々と仕掛けていっているんですね。でも廣畑さん、よく20年間(仕事や展示会の)アイデアが尽きなかったんですね。

廣畑 いや、ずっとぎりぎりの所ですよ、都会でも地方でもどこの画廊さんもそうだとは思いますが。画廊側だけではなく、作家にしてもインスピレーションや自分の想い、そういった感受性を掘り下げていっているわけですから。なので、1人の作家が世間に通用していくには相当な時間がかかることは承知しています。かといって次々と作家が育っていくわけでもないですし、それを待っているばかりではいられないですからね。その点は、作家も画商も互いに刺激や影響をし合って、生き残っていくために仕事をしていることに今は疑いがないですね。

建築家 島 桐子 Toko SHIMA
1959年 和歌山市生まれ 神戸大学大学院工学研究科修士課程修了(建築学専攻) 所属等  公益社団法人日本建築家協会近畿支部和歌山地域会 会長 一般社団法人和歌山県建築士会 女性委員会委員 一般社団法人和歌山県建築士事務所協会 会員  欠陥住宅和歌山ネット 代表幹事 NPOまち・住まい支援ネット和歌山 監査 和歌山県森林審議会委員

アトリエクウ一級建築士事務所

〒640-8269 和歌山県和歌山市小松原通3-21 タイヨーセントポリア3A TEL 073-424-3998 http://ateliercoo.com

建築の設計とは……一言で言うと建築主さんの要望をカタチにする仕事です。きちんと要望に添えるために、設計者がまずそれを正しく理解して、確認して、整理整頓してそして建築主さんに納得していただく。これが一番大切な仕事でたくさんのコミュニケーションが必要です。今年で仕事を始めて32年です。少しは聞き上手になって来たかなとは思っていますが、まだまだ、まだまだです。(島)

川野恭和

今から90年前、大正期の日本において、社会を「美」で変革しようとした珍しい運動が若者たちによって唱えられました。庶民の生活や日常の雑器にある、自然の恵みや伝統の力、生活の力を含んだ実用品にこそ確かな「美」が潜んでおり、富貴に飾られた美術品でなく名も無き日用品にこそ、本物の美が潜んでいるという思想が造り出されました。

1926(大正15)年1月、「民藝運動」と称されたその運動を率先した思想家・柳宗悦は、盟友である河井寛次郎・濱田庄司らとともに、日本各地の民衆的工芸品を蒐集する旅の中、木喰上人の日記を頼りに寄った紀州で、雪道の坂を踏んで高野山に登りました。そこで、現在も宿坊を運営されている西禅院で泊まった三人は「日本民藝美術館設立趣意書」を書き上げ、その趣意書をもとに「民藝」の歴史は動き始めました。

今回ご紹介する川野恭和さんは、瀧田項一(栃木県文化功労者)に師事され、現在、国画会の工芸部門において後進を先達する立場にもあります地元鹿児島県をはじめ東京銀座、関西ここヒロ画廊など全国各地で作品発表を行われています。民藝の思想をベースに牢乎とした美しさを1点1点の作品に注ぎ込まれ洗練された白磁に丁寧に削がれた鎬や面取り定番のコーヒーカップや花器ティーポットをはじめ食器全般を中心に制作されています 。実際に窯を訪れたことのなかった私は今回の個展にあたり鹿児島県を訪れました。 

艸茅窯(そうぼうがま)は、鹿児島県伊佐市大口の市街地から離れ、広々とした田畑に囲まれた場所にあります。 この地で約30年前より生活され、窯を運営される川野ご夫妻。お二人は、宮城県で約40年前に開催された日本民藝青年夏期学校で出会われました。川野さんは窯業の訓練校を卒業されて陶芸家として駆け出しの頃、奥さまの經子(けいこ)さんは父のすすめにより夏期学校に参加され、そのときの講師は前出の濱田庄司でした。

「陶芸も絵もそうだけど、それらを生業にして喰っていくことは並大抵じゃない。けど、その点はお義父さんが文化や美術に対する造詣が深いことで、(結婚することに)理解してもらえました」經子さんの父は仙台・丸善(現・丸善雄松堂書店株式会社)の書店員で西洋文化や陶芸にとても理解のあった方でした。

「(お義父さんは)仙台の丸善で企画された、長谷川利行展でも自分で作品を買って楽しんでいました。(經子さんと)付き合いだして間もない頃、書店員だけに家に行くと作家の面白い本がいっぱいありました。なかでも秋岡芳夫と安野光雅。二人とも駆け出しのころだったけど、書店でもそういった『この作家は売れるぞ』という才能の原石ある作家の本を平積みにしては、お客さんに紹介していたようです。読書週間になれば、仙台の各所でよくエッセイも書いていました。長谷川利行もそうだし、秋岡、安野……美術や陶芸に対する先見の明は確かにあったのだと思います」当時、丸善は近代日本における西洋の文化・学術紹介に貢献し、その気風は「丸善文化」と呼ばれていました。前述の民藝運動が盛んな頃、『白樺派』の若者たちは丸善から欧州の新しい芸術思想を仕入れ、バーナード・リーチと議論を戦わせたといいます。梶井基次郎『檸檬』や芥川龍之介『歯車』にも当時の丸善文化を示唆する描写が作中には残されています。  

「鹿児島に嫁いでから働きに出たことがないんです」そう言い切られる經子さん。ご主人の陶芸制作を付きっきりでサポートし、傍らでは4人のお子さんを育てられました。一方、東京の展示会では必ず同伴し、作品の説明やお客様の生の声を聞かれています。「うち(艸茅窯)で作っているものは、食器としたら安価ではないです。でも永く楽しんでいただけるのは間違いないですし、コンクリートに落としても割れないときもあります。それに、陶芸家にしろ、ものを作る人って説明や、そんなお話しをされないでしょ。主人もよく喋るようになったのは、年を重ねてからですね」 「かみさんには助けられっぱなしですよ。俺が生きるか死ぬかってぐらいしんどいときでも、家の戸締まりを確認してから病院に連れて行きますから。それほどいつも落ち着いています」二人の会話からは、夫婦として、パートナーとしての強い結びつきを感じさせられます。

約一世紀前に若者たちの狂熱をともなって高野山で胎動の一つが生まれた民藝。運動に奔走した濱田庄司、濱田に師事した瀧田項一がいて、彼らに薫陶を受けた川野恭和さん。
和歌山の画廊で、善く生きることを精一杯動き考えた陶芸家たちが創り継がれている「用の美」をご覧いただくことは、決して因縁めいたものではなく、日本人のライフスタイルに民藝の精神が茫洋と漂っている証しであり、世代を超えた清廉さと情熱の結晶にちがいありません。日常の限られたその瞬間を美で豊かにすることにこそ、柳らが追い求め続けた無心の「用の美」であり、川野さんが唱えられている「壷にはまった繰り返しの仕事」が生きるのだと確信しております。

[略歴]
川野 恭和(かわの・みちかず)
1949 鹿児島県曽於郡志布志町生まれ
1974 愛知県立瀬戸窯業専修訓練校 卒業 瀧田項一氏(栃木県文化功労者)に師事
1980 鹿児島県大口市に築窯
1981 日本民藝館展初入選
1984 国展初入選
1985 国展前田賞受賞
1991 日本民藝館展奨励賞受賞
2003 国画会会員に推挙 現在 国画会会員

構成・撮影 廣畑 貴之